関白の近衛前久は、多くの戦国武将と交流があり公家とは思えないような活動的な人物でした。
中でも、上杉謙信とは盟約を結ぶ仲で越後まで出向いたこともあります。
また、関白という役職柄、本来は京都に留まっていることが一般的ですが、実は関東の古河城(茨城県)でしばらく滞在していたこともあったのです。
この記事では、大河ドラマ「麒麟がくる」では触れていなかった、近衛前久の知られざる関東でのエピソードをご紹介します。
【キャストビジュアル 第2弾】
近衛前久(このえ・さきひさ)
本郷奏多
#麒麟がくる pic.twitter.com/6U1Nu3VAj3— 【公式】大河ドラマ「麒麟がくる」毎週日曜放送 (@nhk_kirin) August 29, 2020
近衛前久と上杉謙信の関係:なぜ関東にいたのか理由を解説!
近衛前久が大河ドラマ「麒麟がくる」で初登場したのは永禄7年(1564年)の頃ですが、「桶狭間の戦い」のあった永禄3年(1560年)からこの間、実は上杉謙信と関係が深まっていました。
また、ちょうどこの頃、近衛前久は京都からわざわざ関東に出向いて古河城にしばし滞在しています。
「麒麟がくる」で描かれなかった空白の4年間、近衛前久はなぜ関東にいたのか解説していきましょう。
近衛前久と上杉謙信は盟約を結ぶ仲
永禄2年(1559年)、当時の将軍・足利義輝の上洛要請を受けた越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)は、それに従って謁見の為に京都へ上洛します。
その時、上杉謙信と将軍・足利義輝の謁見と交渉を仲介したのが近衛前久だったのです。
これをきっかけに近衛前久と上杉謙信は信頼し合うようになり、二人は血書の誓紙を交わして盟約を結びました。
この盟約により、のちに近衛前久は関東へと赴くことになったのです。
近衛前久はなぜ関東(茨城県古河市)にいたのか理由を解説
永禄3年(1560年)8月、上杉謙信は当時の関東管領・上杉憲政から「関東管領」の地位を譲り受けるとともに、北条氏康の支配する関東を平定する為に越後の山を越えて出陣します。
上杉謙信と盟約を結んだ近衛前久は、これに伴って関白という地位にありながら越後へと下り、上杉謙信の関東進攻を支援するため古河城へ入ったのです。
このように、現職の関白が京都から遠く離れた地に長期に渡って下向することは前例はありません。
また、この時期から「前嗣」から「前久」に改名し、花押を公家様式から武家様式に変えるなど、上杉謙信の関東進出に対して並々ならぬ決意を抱いていたことがわかります。
この上杉謙信の関東進出に際し、関東在郷の武士の多くが呼応し「打倒・北条氏」を掲げて出陣し、上杉謙信ととも北条氏康の本拠である小田原城を攻囲しました。
しかし、堅牢な小田原城を陥落させるには至らず、長年のライバルであった武田信玄の不穏な動きもあった為、上杉謙信は越後へと帰還してしまいます。
上杉謙信が去ったことや、長期間の布陣で疲弊した関東の諸将は小田原から撤退すると、北条氏康は反転攻勢に出て次々と関東の武将を攻略し、北条方へと服属させたのです。
北条方が攻勢を強める中、それでも近衛前久はしばらくは古河城に留まって関東平定に尽力しましたが、やがて北条方の勢力が古河城付近まで迫って来たため、永禄5年(1562年)2月に京都へと戻ることにしたのです。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、永禄3年(1560年)「桶狭間の戦い」から一気に永禄7年(1564年)に時代が進み、この時初めて近衛前久が登場しますが、実はその間は上杉謙信を支える為に関東に滞在していたのです。
ちなみに、この上杉謙信の関東進出についての詳しい内容や、その上杉謙信を支えた武蔵(埼玉県)の代表的な武将の太田資正について、下記の記事で詳しくご紹介していますので、こちらもぜひ読んでもらえるといっそう当時の様子がわかってもらえると思います。
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近衛前久と足利義輝は義理の兄弟:「麒麟がくる」で改元について言い争った理由を解説
さて、大河ドラマ「麒麟がくる」では関白・近衛前久も登場していますね。
その近衛前久は、将軍・足利義輝と対面するシーンで改元のことで言い争いになっていました。
ところで二人の言い争いの元となった改元は、いったい何が問題だったのでしょうか?そのことについて解説していきます。
近衛前久と足利義輝は義理の兄弟の関係
関白の近衛前久の兄妹が13代将軍の足利義輝の正室で、二人は義理の兄弟という関係にあります。
また、近衛前久は、叔母の慶寿院の夫が12代将軍・足利義晴で、幼少期には偏諱を受けて「晴嗣」と名乗っていました。
このように、近衛前久は足利将軍家と姻戚関係にあったわけですが、偏諱の「晴」の文字を捨て「前嗣」と名乗るようになったり、後述する改元問題などもあり、将軍家とはあまり良好な関係ではなかったようです。
「麒麟がくる」で近衛前久と足利義輝が言い争っていた改元問題を解説
大河ドラマ「麒麟がくる」の第22話で、関白・近衛前久(本郷奏多)と将軍・足利義輝(向井理)が対面する場面がありました。
その中で、足利義輝が改元のことで怒りをあらわにしていましね。
これは、1558年に正親町天皇の即位にあたって元号を「弘治」から「永禄」に改元した時のことを指しています。
当時は三好長慶が京都を支配しており、対立していた足利義輝は京都から追放されている状況でした。
通常、改元の際は将軍と相談し費用の負担をもとめるものですが、当時の足利義輝にはその財力はなく、代わりに三好長慶が負担しました。
それだけでも将軍の権威はガタ落ちですが、さらに改元したことを知らせていなかった為、改元後半年にも渡って足利義輝は「弘治」の元号を使い続けてしまったのです。
これは朝廷が将軍・足利義輝を見限ったとも思える行為であった為、足利義輝は怒りとともに落胆してしまったわけです。
「麒麟がくる」の作中でも、足利義輝がふてくされた態度をとっていたのは、こういった事情があったわけなんですね。
まとめ
- 近衛前久は、上杉謙信が上洛した際に盟約を交わす仲となった。
- 永禄3年(1560年)に始まった上杉謙信の関東進出を支援するべく、近衛前久は古河城(茨城県)に滞在していた。
- 近衛前久と将軍・足利義輝は義理の兄弟の関係。
- 大河ドラマ「麒麟がくる」で、足利義輝と近衛前久が言い争っていたのは、改元したことを義輝に伝えていなかったことによる。
ちなみに、この近衛前久は織田信長と仲が良かったと言われますが、一方で実は「本能寺の変」の黒幕だったという説もあります。
そのことについては下記の記事でご紹介していますので、興味のある方はこちらも併せて読んでみて下さい。
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