戦国時代

上杉謙信はいつ関東管領になったのか?関東征伐の目的や侵攻ルートと小田原城の戦いについて解説!

2020年8月3日

上杉謙信というと武田信玄のライバルという印象が強く、また織田信長を破ったことで戦国時代最強の武将とイメージが強いと思います。

こうした戦国時代を代表する武将とのエピソードが強烈である為、実は上杉謙信は関東まで進軍していたという事はあまり知られていないのではないでしょうか?

また、拠点が越後ではありますが、「関東管領かんとうかんれい」という役職にも就任していました。

この記事では、あまり知られていない上杉謙信の関東征伐について、その目的や侵攻ルートをご紹介します。

 

関東管領とは何かわかりやすく簡単に解説!

まずは、上杉謙信が就任した「関東管領」とはそもそもどんな役職なのか解説していきましょう。

関東管領は鎌倉公方かまくらくぼうを補佐する役職

室町幕府は関東地方の国々を統括する鎌倉府を設置し、その長官として鎌倉公方を置きました。

関東管領とは、その鎌倉公方を補佐する役職のことです。

しかし、任命権は鎌倉公方にはなく幕府にあるなど、組織上は鎌倉公方の下に位置しているものの、独立性の強い存在でした。

それゆえ、鎌倉公方との権力争いも絶えず、それがもとで1438年には「永享えいきょうの乱」や1454年から約28年にも及ぶ「享徳きょうとくの乱」が起こり、その騒乱のなかで鎌倉公方は分裂してゆきました。

鎌倉府の管轄

関八州
相模国・武蔵国・上野国・下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国

伊豆国・甲斐国

なお、「鎌倉公方」が「古河公方」や「堀越公方」に分裂していった理由や背景については、下記の記事でご紹介していますので、気になった人はこちらもぜひこちらも読んでみて下さい。

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関東管領は代々上杉氏が務める

鎌倉公方の補佐として置かれた関東管領は、室町幕府が開かれて初期の頃は斯波しば氏や畠山はたけやま氏といった氏族も就任していましたが、次第に上杉氏がその地位を独占するようになります。

しかし、その上杉氏も一枚岩ではなく、越後から上野周辺を支配する「山内上杉家」や関東南部を支配する「扇谷おうぎがやつ上杉家」に分裂し、次第に上杉氏内部での争いも起きてしまいます。

さらには上杉氏の家臣であった長尾氏の台頭もあり、上杉氏内部も争いが断続的に続き、泥沼の様相を呈していました。

このように、室町幕府が開かれて以降、関東地方は「鎌倉公方」「関東管領」の間で絶えず争いや分裂が続き、不安定な情勢が続いていたのです。

 

1546年「河越城の戦い」で関東管領の上杉憲政は関東から追われる

そうした状況の中、相模国を平定した北条氏が関東に進出し、1537年には北条氏綱が扇谷上杉氏の拠点「河越城」を奪うと、一気に関東地方を平定してしまいます。

その後、1546年に関東管領であった上杉憲政のりまさは、争い合っていた「古河公方」や「山内上杉家」「扇谷上杉家」をまとめ、北条家を打倒する為に拠点となっていた河越城を包囲します。

この河越城をめぐる一連の争いを「河越城の戦い」と呼び、この戦いで北条氏康に敗れると、関東管領の上杉憲政をはじめ「古河公方」や「山内上杉家」「扇谷上杉家」といった旧勢力は関東から一掃されてしまいました。

この時、関東管領の上杉憲政はなんとか生き延び、越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)のもとに身を寄せるようになりました。

古河公方

第5代鎌倉公方の足利成氏は「享徳の乱」で鎌倉を追われ、現在の茨城県古河こが市に移った為、以後は「古河公方」と称しました。

ちなみに、この「河越城の戦い」については下記の記事でまとめていますので、こちらも参考にしてみて下さい。

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越後の上杉謙信がなぜ関東管領になったのか?いつどこで就任したか解説!

さて、なぜ越前の上杉謙信が関東管領に就任したのでしょうか?その経緯や就任した背景を解説していきましょう。

上杉憲政が上杉謙信に関東管領の座を譲る

1546年の「河越城の戦い」で北条氏康によって関東を追われた上杉憲政は、長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃れましたが、これは長尾氏がもともと上杉氏の家臣筋にあたるからです。

なんとか北条氏に対抗したいと考えていた上杉憲政は、長尾景虎を養子に迎え入れ上杉家の家督を譲り、さらには関東管領の座を引き継がせることで、北条氏康に対抗しようとしたわけです。

こうして長尾景虎は上杉を名乗り、関東を支配した北条氏康と対決することになったのです。

こうしてみると、上杉謙信は上杉憲政に従って関東進出をしたように映りますが、上杉謙信としても領土拡大の為に関東へ進出する大義名分ができた為、双方にとって都合がよかったのです。

また、一説には上杉謙信が関東進出したのは、冬場の食料不足を補う為だったとも言われており、関東進出は重要な施策のひとつだったと考えられます。

 

1561年(永禄4年)上杉謙信は鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領に就任式をあげる

さて、上杉憲政から関東管領の職を引き継いだ上杉謙信は、1560年(永禄3年)から始まった関東征伐の際に、翌年の1561年(永禄4年)に鎌倉の鶴岡八幡宮で就任式を行っています。

こうして名実ともに関東管領に就任し、関東へ進出する大義名分ができたわけですね。

 

 

上杉謙信の関東征伐の侵攻ルートと目的となる「小田原城の戦い」を解説!

上杉謙信の侵攻ルート

参照:地図でスッと頭に入る戦国時代

上杉謙信の関東侵攻は「桶狭間の戦い」の影響?

相模国の北条氏康は、隣接している駿河国の今川義元および甲斐国の武田信玄と「甲相駿三国同盟」を結んでいました。

ところが、1560年(永禄3年)5月に「桶狭間の戦い」で織田信長が駿河の今川義元を討ち取ったことで、この三国関係に動揺が走ります。

上杉謙信はこれを絶好の好機と捉え、同年の8月に北条氏康が支配する関東侵攻を決意したと考えられています。

 

1560年(永禄3年)8月から翌年3月までの関東征伐侵攻ルート

1560年(永禄3年)8月に兵8000を率いて越後を出陣すると、10月初旬には上野国に到着すると北条方の沼田城や厩橋まえばし城などを次々と攻略し、その厩橋城で年を越します。

この間、上杉謙信は関東地方の武将に対し北条討伐の号令をかけ、ともに戦うよう参戦を促しました。

年が明けた1561年(永禄4年)1月、上杉謙信は上野国から武蔵国へと進軍し、深谷城・忍城・羽生城などを抑えつつ、北条方の重要拠点であった松山城や河越城を突破します。

そして3月には北条家の拠点である小田原城まで進軍したのでした。

なお、この上杉謙信に呼応した諸将を記した『関東幕注文』によれば、上野・下野・武蔵・常陸・下総・上総の七カ国の地域領主とその家臣の名が連ねられ、その数は総勢255名にも及んでいます。

そして、最終的には10万を超える兵が小田原城をはじめとする諸城を包囲したと言われています。

なお、この上杉謙信の関東進出に積極的に係わった太田資正すけまさという武蔵国の武将がいます。

この太田資正は、かつて北条氏康と対立し敗れて一度は家臣となるも、その反骨心は消えることなく燃え続けていました。

ちなみに、その後再び北条氏康と対決することになるのですが、その時に犬を使った珍しい戦術を用いています。興味のある方は、ぜひ下記の記事を読んでみて下さい。

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「小田原城の戦い」の戦況・経過

上杉軍先陣は3月3日頃に当麻(相模原市南区)に陣を取り、同8日に中筋(中郡)に達し、14日には大槻(秦野市)で、北条方の大藤秀信隊と戦闘に及びます。

上杉軍はさらに南下し、22日に曽我山(小田原市曽我)、24日にぬた山(南足柄市怒田)でも戦闘が行われました。

上杉謙信も3月下旬までには小田原近辺に迫り、酒匂川辺に陣を張ったと言われます。

北条家の本拠である小田原城では、挑発のために城下に放火して北条方の兵をおびき出そうとするも、籠城に徹していたようで城下での両軍の争いはみられなかったといいます。

また、先程ご紹介した太田資正が蓮池門へ突入するも、北条方も粘り強く守り抵抗したそうです。

しかし、結局は難攻不落の小田原城を陥落させるには至らず、3月下旬に上杉謙信は包囲を解いて小田原城から撤収しました。

参集した兵10万とも言われるこの「小田原城の戦い」ですが、実はこの戦いに関する史料はほとんど無いため、詳しいことはわかっていないそうです。

なお、上杉謙信が大軍を率いても小田原城を攻め落とせなかった要因はいくつかあり、それらをまとめると下記のとおりです。

  • 北条氏康と同盟を結ぶ武田家や今川家からの援軍の気配があった。
  • 佐竹氏・小田氏・宇都宮氏らが長期布陣が不可能として撤兵を要求した。
  • 越後でも関東への兵や荷物の輸送についての紛争が起こっていた。
  • 当時、関東では飢饉が相次ぎ、兵の食料が底を尽きかけていた。
  • 松山城で上田朝直が謀反を起こすなど、大連合軍にほころびが見え始めていた。

上杉謙信は小田原城を落とせず撤収すると、その後鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を執り行い、6月には越後に帰還しました。

こうして約10ヶ月にわたる関東征伐は終わりますが、その後上杉謙信は毎年のように関東へと進出しています。

ただ、その後は小田原城まで攻め込むことはなく、また関東の諸将も上杉謙信に付かず離れずを繰り返す者や離反する者もあり、上杉謙信が関東全域を治めることは叶いませんでした。

 

 

まとめ

  • 関東管領は、関東の国々を統括する鎌倉公方の補佐役として設置された役職で、代々上杉氏が就任していた。
  • 1546年に北条氏康によって関東を追いやられた関東管領の上杉憲政は、越後の上杉謙信(長尾景虎)のもとへ逃れる。
  • 打倒・北条を目的とする上杉憲政と、関東進出の大義名分がほしい上杉謙信の利害が一致し、関東管領を謙信に引き継ぐ。
  • 関東管領を引き継いだ上杉謙信は、1560年8月から1561年6月にかけ関東へ進出する。
  • 上杉謙信は大軍を率いて北条家の本拠地・小田原城を包囲するも落とすことはできず、越後へと帰還した。

 

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