戦国時代

埼玉県の有名な戦国武将(大名)や勢力図を紹介!大宮や川越など地名別に一覧で解説!

2020年7月27日

戦国時代といえば織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑をはじめ、武田信玄・上杉謙信などが有名ですよね。

こうした有名武将に関する合戦や逸話はよく知られていますが、意外と関東地方の武将については知られていないでしょう。

この記事では、そんなあまり知られていない戦国時代の関東地方の勢力図の変遷や有力武将について、埼玉県(当時の武蔵国)にスポットを当ててご紹介しています。

 

戦国時代の埼玉県(当時の武蔵国)の戦国大名の勢力の変遷を解説!

まずは戦国時代の関東地方の勢力の変遷を時系列で簡単にご紹介していきます。

応仁の乱以前「享徳きょうとくの乱」太田道灌どうかんの活躍

太田道灌 引用:Wikipedia

戦国時代の始まりとも言われる「応仁の乱(1467年~1478年)」以前から、関東ではすでに「享徳の乱(1455年~1483年)」と呼ばれる内乱が起こっていました。

事の発端は鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事で、その後足利将軍家と上杉氏(山内・扇谷おうぎがやつ)を中心として関東一円を巻き込んだ争いとなりました。

この時、扇谷上杉家のもとで活躍したのが太田道灌で、河越城を始め江戸城も築いたと言われています。

そして、この太田道灌の活躍により、関東一円を巻き込んだ動乱は次第に収束に向かったのでした。

なお、この「享徳の乱」は約28年間にも及び、近年の歴史学では、これが関東地方における戦国時代の始まりとも言われています。

この頃の関東地方は、鎌倉公方(古河公方)・関東管領の上杉氏・京都の幕府の権力が複雑に絡み合って対立していました。

これらの対立や鎌倉公方の分裂の歴史については、下記の記事でわかりやすくご紹介していますので、関東の歴史をおおまかに知りたい人はぜひこちらも参考にしてみて下さい。

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山内上杉家vs扇谷上杉家の争い「長享ちょうきょうの乱(1487年~1505年)」

「享徳の乱」で活躍した太田道灌は扇谷上杉家に仕えていた武将ですが、あまりの才気に「いずれ乗っ取られてしまうかもしれない」と考えた扇谷上杉定正は、なんと太田道灌を暗殺してしまったのです。

すると、これをきっかけとして山内上杉家が扇谷上杉家の領内に攻め入り、両上杉家で内乱が勃発してしまいます。

この内乱を「長享の乱」と呼び、両者の間で泥沼の状態に陥り、次第に両上杉家は衰退の道を歩むことになります。

 

北条早雲(伊勢宗瑞)の台頭と北条家の関東進出(1500年~1560年頃)

伊豆・相模を支配した北条早雲(伊勢宗瑞いせそうずい)は、1500年には小田原城を攻略して拠点とし、関東進出を目論むようになります。

北条早雲の亡き後を継いだ北条氏綱は、1524年に扇谷上杉家の江戸城を奪取すると、1537年には河越城も奪って一気に関東南部まで領土を広げます。

その跡を継いだ北条氏康は、こうした関東の旧勢力の反発もありましたが、1546年に「河越城の戦い(河越夜戦)」で勝利すると扇谷上杉家を滅亡させ、山内上杉家や古河公方といった旧勢力を一掃しました。

こうして、関東地方は小田原城を拠点とする北条氏が支配するようになったのです。

なお、戦国大名のさきがけとも言われ、北条氏の祖とも言われる北条早雲(伊勢宗瑞)については、下記の記事でわかりやすく解説していますので、こちらも併せて読んでみて下さい。

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上杉謙信の関東進出(1561年~1569年)と北条家の統治(~1590年)

「河越城の戦い」で敗れた関東管領の上杉憲政を庇護下に置いた上杉謙信は、上洛して将軍・足利義輝から関東進出の大義名分を得ると、1561に関東地方へ進出してきます。(拠点の越後を出陣したのは1560年)

この上杉謙信の関東進出の際、武蔵国(埼玉県)の忍城の成田氏や岩付城の太田氏などが同調し、上杉謙信方につくようになりました。

こうして大軍を率いて小田原城へと進軍した上杉謙信ですが、北条氏康は籠城してこれをしのぎます。

上杉謙信は一旦は引き返しますが、その後毎年のように関東へ進出するようになり、武蔵国の在郷武将は上杉と北条の間で付いたり離れたりを繰り返すようになります。

しかし、1569年頃に上杉謙信と北条氏康との間で和睦すると、以降は武蔵国の武将は北条家の傘下に入ることになりました。

その後、武蔵国は基本的に北条氏の支配下にあり、小規模な戦いはあったものの勢力図を大きく変えることもなく経過します。

戦国時代といえば、織田信長が活躍した時代と地域について取り上げられることが多いですよね。

しかし、その戦国時代の一番熱い時期、武蔵国はほとんど大きな変化が無いのです。

そのため、埼玉県の有名な戦国武将は?と聞かれても、ほとんど名前が上がってこないんですね。

下記の勢力図の変遷を観てもらえば、それがよくわかると思います。

 

豊臣秀吉の北条家征伐(1590年):徳川家康が関東を治める

その後、織田信長亡き後、豊臣秀吉が天下統一に乗り出し全ての大名を家臣としますが、北条氏(氏政・氏直)は従うことを拒み続けました。

これに対し、秀吉は20万人とも言われる大軍を率いて小田原城に攻め込み、北条氏はこれに屈して滅亡します。

北条氏の滅亡によって、空白となった武蔵国の統治を任されたのが徳川家康です。

当時、これ以前の徳川家康は駿河国(静岡県)に拠点を構えていましたが、豊臣秀吉によって江戸へと異封を言い渡されていたわけです。

もし仮に北条氏が豊臣秀吉に従い、そのまま北条氏が関東を統治していたら、その後の日本の中心は駿河国(静岡県)になっていたかもしれませんね。

 

 

戦国時代の埼玉県の有名な戦国武将を地名別に紹介!

さて、戦国時代で一番メインとなる織田信長が活躍した頃の武蔵国(埼玉県)は、基本的に北条氏の統治下にありました。

とはいえ、北条氏の拠点は相模国の小田原であった為、もとからいた武将が北条氏の家臣となって各地を統治したわけです。

それでは、どんな武将(氏族)が武蔵国にいたのかご紹介しましょう。

 

岩付城(現在のさいたま市岩槻区)を拠点:太田氏

引用:Wikipedia

現在のさいたま市岩槻区にあった岩付城には、太田道灌の子孫である太田氏が居城としていました。

この太田氏の中で有名なのが太田資正おおたすけまさ(1522年生~1591年没)という武将で、関東に進出してきた北条氏に対し対立姿勢を示した人物です。

1561年に関東に進出してきた上杉謙信の味方となり、対北条氏の先鋒を務めています。

ちなみに、この太田資正は太田道灌のひ孫にあたります。

この太田資正は犬を伝令役として使ったという逸話のある武将で、戦国時代の真っ只中に活躍した埼玉県を代表する武将です。

詳しくは下記の記事にまとめましたので、ぜひこちらを参考にしてみて下さい。

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河越城(現在の川越市)を拠点:扇谷上杉氏

上述したように、いわゆる「戦国時代」が始まる前から武蔵国を支配していたのが扇谷おうぎがやつ上杉氏で、家臣だった太田道灌が築いた河越城を拠点としていました。

しかし、関東に進出してきた北条氏綱に河越城を奪われると、その息子の氏康に「河越城の戦い(1546年)」で敗れ扇谷上杉氏は滅亡しました。

この「河越城の戦い」で敗れ、事実上最後の当主だったのが扇谷上杉朝定おうぎがやつうえすぎともさだ(1525年生~1546年没)という人物です。

ちなみに、この「河越城の戦い」については下記の記事で詳しくご紹介していますので、興味のある方はこちらも読んでみて下さい。

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忍城(現在の行田市)を拠点:成田氏

現在の行田市や熊谷市一帯を収めていたのが、忍城を拠点とする成田氏です。

成田氏も太田氏と同様に上杉謙信の関東進出に同調しましたが、その後は北条氏康に仕えたり上杉謙信に仕えたりと、その時々で双方の間を行ったり来たりしていました。

この成田氏で有名なのが、映画「のぼうの城」でも有名な「のぼう」こと成田長親なりたながちか(1546年生~1613年没)です。

1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条方だった成田氏の忍城が水攻めにあったものの、最後まで落城しなかったことで有名です。

その時、忍城を指揮していたのがこの成田長親だったわけです。

この時、豊臣軍の総大将は石田三成で、約2万人とも言われる大軍を率いており、あの真田幸村や真田昌幸親子も参戦していたと言われます。

こうした有名な武将の攻撃にも耐え抜いたわけですから、埼玉県民には痛快な戦いですね。

ちなみに、成田長親は当主ではありません。

当時の成田家の当主は成田氏長で、長親のいとこにあたります。

この時、氏長は北条氏の援軍の為に小田原城へ出陣しており、代わりを務めたのが長親だったわけです。

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松山城(現在の吉見町)を拠点:上田氏

現在の東松山市との境に位置する松山城は、15世紀後半に上田氏によって築城されたと考えられています。

この松山城は武蔵国を代表する要所であった為、北条氏が関東地方に進出してからこの松山城をめぐって幾度となく争いが起こっています。

1546年の「河越城の戦い」で勢いにのった北条氏康はこの松山城を奪いますが、前述の太田資正によって奪い返されます。

しかし、当主の上田朝直うえだともなお(1494年生~1582年没)は北条方に寝返ると、北条氏康によって城主として本領安堵されました。

その後、しばらくの間は北条方として上田朝直が松山城主を務めますが、1561年に上杉謙信の関東進出に呼応した太田資正によって再び松山城が奪還されます。

武蔵国の支配を巡るうえで重要な松山城は、太田資正と上杉謙信の連合軍と武田信玄を援軍に迎えた北条氏康の連合軍で激しい争奪戦となりました。

結果的には上杉謙信の到着が間に合わず、激戦の末に北条氏康・武田信玄の連合軍が勝利し、松山城は北条方のものとなります。

その後、北条氏の関東支配が一段落すると、再び上田朝直が松山城の城主となり周辺の領国経営を行う事になりました。

 

難波田城(現在の富士見市)を拠点:難波田氏

北条氏が関東地方に進出してくる以前は、山内上杉家と扇谷上杉家の上杉氏が覇権を競う状態が続いていました。

その扇谷上杉家の重臣だったのが難波田憲重なんばだのりしげ(?~1546年没)で、北条氏との大規模な合戦である「河越城の戦い(1546年)」で山内上杉家や古河公方との連合に一役買った人物と言われています。

しかし、くしくもその「河越城の戦い」で討ち死にしてしまい、それとともに難波田氏は没落してしまいました。

この難波田憲重は武人としてだけでなく和歌にも精通しており、1537年に松山城をめぐる北条氏との合戦の中で、北条方の山中主膳と和歌をやり取りしたという逸話(松山城風流合戦)があります。

なお、難波田憲重は前述の松山城の城主を務めており、婿養子であった太田資正は難波田憲重の亡き後、松山城の継承権を得ていたとされます。

 

羽生城(現在の羽生市)を拠点:広田氏・木戸氏

上杉謙信が1561年に関東へ進出し、それに呼応して「打倒・北条」を目指して集った武将は「関東幕注文かんとうまくちゅうもん」という史料にその名が記されています。

その「関東幕注文」に、羽生衆として名前が記されていたのが、広田直繁なおしげ木戸忠朝ただともの兄弟です。

羽生城についての遺構は全く残っていませんが、史料から類推するとこの兄弟は長らく北条氏と争っていたようです。

 

天神山城(現在の長瀞市)を拠点:藤田氏

藤田氏は、平安時代末期に北部の武蔵国榛沢郡藤田郷を拠点として栄えた一族です。

この天神山城は1540年頃に当時の当主・藤田康邦やすくに(1513年?生~1555年没)によって築城されたものと考えられています。

この藤田康邦のもとに北条氏康の四男・乙千代丸(北条氏邦)が養子に入り、のちにこの北条氏邦が家督を継いで天神山城の城主となります。

その後、北条氏邦はこの天神山城から鉢形城へと移り、武蔵国の北部を支配する体制が整います。

長い歴史を持つ藤田氏でしたが、北条氏邦が家督を継いだことにより、北条氏に組み込まれたかっこうになってしまいました。

 

騎西城(現在の加須市):小田氏

前述の忍城の成田氏と縁の深い一族で、その成田氏と同様に、状況に応じて上杉謙信と北条氏康のどちらにつくか行ったり来たりを繰り返していました。

1562年3月、北条氏康は武蔵国の要所であり、太田資正が守る松山城の攻略に乗り出します。

その後、膠着状態が続いたものの北条方には武田信玄も援軍に加わり、約1年後の1563年2月に松山城は陥落しました。

この松山城の救援に上杉謙信も駆けつけますが、結局は間に合わず、越後へ帰還する際に北条方についていた関東の諸城に攻め込んで行きました。

当時、騎西城の城主は小田朝興ともおきでしたが、この時は北条方についていた為、上杉謙信に攻め込まれてしまいました。

 

 

まとめ

戦国時代の埼玉県(武蔵国)は、「応仁の乱」以前から鎌倉公方・古河公方・堀越公方といった足利将軍家と山内・扇谷の両上杉家で争いがおこり、長らく不安定な情勢が続いていました。

しかし、1500年頃に北条早雲が台頭してきた後は、その北条氏が関東に進出し三代目の北条氏康の時代にこれらの旧勢力を排除します。

その後、上杉謙信の関東進出により、太田氏や成田氏といった在郷の一族の抵抗もありますが、北条氏の支配体制は変わることはありませんでした。

このように、織田信長が活躍していた戦国時代の一番激動していた時期も、埼玉県は基本的には北条氏が統治しており、当時どんな武将がいたのかあまり知られていないんですね。

しかし、その北条氏に軍用犬を用いて抵抗し続けた太田資正や、石田三成が率いる大群に対し最後まで城を守り抜いた成田長親など、埼玉県にも魅力的な武将はいます。

これをきっかけに、埼玉県の歴史を調べてみてはいかがでしょうか?きっと魅力的な人物の歴史が浮かび上がってくると思いますよ。

 

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