戦国時代

森長可が鬼武蔵と呼ばれた由来を解説!織田信忠と高遠城攻めの逸話についても

2020年7月19日

引用:Wikipedia

戦国時代の部将には破天荒な逸話がある人物が数多くいますが、織田信長に仕えた森長可もそのうちの一人です。

森長可は同じく織田信長に小姓として仕えた森蘭丸の兄ですが、その印象とはまったく違い兄弟とは思えない荒々しい人物でした。

この記事では「鬼武蔵」とも呼ばれ恐れられた森長可の経歴や逸話についてご紹介しています。

 

長可ながよしとはどんな人物か家系図から解説!

臣従 織田信長→豊臣秀吉
出生地 尾張国
生没年 永禄元年(1558年)~天正12年(1584年) 享年27
主な戦歴 天正2年(1574年) 伊勢長島一向一揆攻略
天正3年(1575年) 長篠の戦い(vs 武田家)
天正6年(1578年) 越中国攻略
天正7年(1579年) 有岡城の戦い(vs 荒木村重)
天正10年(1580年) 甲州征伐(vs 武田家)

 

森長可は森蘭丸の兄:家系図から解説

森長可は古くから織田信長に仕えた森可成よしなりとえい(妙向尼)の次男として生まれました。

父の可成は「攻めの三左」と呼ばれ武勇を誇った人物で、長可はその父の遺伝子を大きく受け継いだ猛将に育ちます。

織田信長の小姓として有名な蘭丸こと成利はすぐ下の弟にあたります。

 

父の可成と兄の可隆の死により13歳で家督を継ぐ

森長可の父・可成は、元亀元年(1570年)9月に、居城の宇佐山城が浅井・朝倉連合軍と本願寺の一揆勢の大軍に攻め込まれ討ち死にしてしまいます。

本来であれば家督は長男の可隆よしたかが継ぐわけですが、その可隆も同じ年の4月に父の可成より先に越前攻め戦いで討ち死にしていた為、当時まだ13歳だった長可が森家の家督を継ぐことになりました。

元亀3年12月6日付の伊藤惣十郎宛の連署状があり、森長可は木下藤吉郎・塙直政・丹羽長秀らに混じって署名しており、当時はまだ15歳ながら兼山城主だけでなく、東美濃衆を統率した有力部将の地位も継承していたことがわかります。

 

 

森長可が「鬼武蔵」と呼ばれた由来と愛用の槍「人間無骨」の逸話を解説

若くして森家の当主となった森長可は、初陣とな伊勢長島一向一揆攻略で27人討ち取るなど、すぐに武人として頭角をあらわします。

その後も多くの合戦で武功を収め、いつしか「鬼武蔵」の異名をもつようになりました。

その「鬼武蔵」の異名の由来や、森長可の恐ろしさを物語る愛用の槍についてご紹介しましょう。

「鬼武蔵」の異名の由来となったエピソードを紹介

織田信長から「関所を通過する際には馬から降りて家名を名乗るように」との通達が出ていましたが、ある時、森長可は急いでいたためそれを無視して通行しようとしました。

関守も信長からの通達ですから、森長可を止めて決まりを守るように注意します。

ところが、それに対して森長可は激怒して「急いでいる儂に下場しろだと?ふざけるな!」と、なんとその関守を斬り殺してしまったのです。

さらに「これ以上何か言うなら街に火を放ってやるぞ!」と他の関守を脅して、強引にその関所を通り抜けてしまいました。

本来なら処罰されてもおかしくないところですが、これを聞いた織田信長は「武蔵坊弁慶のようだな」と笑って許してしまいました。

さらに信長は、これをきっかけに森長可に「武蔵守」を名乗れと命じ、それが由来となって森長可は「鬼武蔵」と呼ばれるようになったそうです。(諸説あり)

このように、織田信長は誰もが恐れる森長可をなぜかとても気に入っていたようです。

 

森長可愛用の槍「人間無骨」について解説

引用:国立国会図書館デジタルコレクション

森長可は、槍の名手として「攻めの三左」と呼ばれた父の可成の遺伝子を大きく受け継ぎ、やりの使い手としても有名でした。

父と同様に十文字槍を愛用していたそうです。

その愛用の十文字槍は「人間無骨にんげんむこつ」と名付けられ、槍の刃の表と裏にそれぞれ「人間」「無骨」と銘が刻まれていました。

この槍の名前の由来は、「人間がまるで骨が無いかのように簡単に切れてしまう」ほどの鋭さからきています。

「人間無骨」は美濃の刀匠・二代目和泉守兼定が手掛けたものと言われ、森長可の父・可成の愛用の十文字槍もこの二代目和泉守兼定によるものと言われています。

森可成はもともと美濃の土岐氏に仕えていたこともあり、二代目和泉守兼定とのつながりもあったのかもしれませんね。

 

 

織田信忠のもとで武田攻めに参戦し高遠城を攻略した逸話を解説

さて、数々の武勇伝が残る森長可ですが、なかでも一番の手柄は武田家を滅亡に追いやった甲州征伐の活躍でしょう。

それではこの甲州征伐での森長可の活躍についてご紹介していきましょう。

織田信忠のもとで武田攻め甲州征伐に先鋒として参戦する

天正3年(1575年)の長篠の戦い以降、甲斐の武田家は次第に弱体化してゆき、機を見計らっていた織田信長は天正10年(1582年)早々、ついに武田攻め(甲州征伐)に乗り出します。

この武田攻めは嫡男・信忠を大将に据え重臣の滝川一益を副主将格にして戦いに臨みました。

森長可もこの武田攻めに参戦し、団忠正とともに先鋒を務めることになったのです。

ただ、まだ若く血気に早る森長可の行動が気になっていた信長は、ベテランの滝川一益や河尻秀隆らにうまく森長可を制御するよう、しきりに手紙を送っていました。

我が子を見守る親のような気持ちだったのかもしれませんね。

ちなみに、信長が手紙を送った二人については下記の記事でご紹介していますので、こちらもざひ参考にしてみて下さい。

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高遠城での森長可の戦いぶりのエピソードを紹介

森長可は武田方の部将・仁科盛信の守る高遠城の攻略の際、信忠率いる本隊とは別行動で攻め込みます。

森長可の部隊は三の丸の屋根に登ると、板を全て引き剥がし城内へ鉄砲で一斉射撃をあびせ、そこから本丸へと向かい獅子奮迅の活躍を見せました。

敵の本丸へとたどり着くと自ら槍を振り回して戦い、手傷を負いながらも次々と敵をなぎ倒しました。

こうした森長可の活躍もあり、高遠城はわずか1日で陥落し、一気に武田家を追い詰めることに成功したわけです。

この戦いの後、森長可が織田信忠のもとへ戻ると、血で真っ赤になった姿を見た信忠は驚き心配しましたが、森長可は「返り血ですから」とケロリと何事も無かったかのように答えたと言います。

「鬼武蔵」こと森長可にとっては血を浴びることなど大したことではなかったようですね。(鬼と呼ばれるのもわかる気がします)

 

武田攻めの褒章として信濃4郡を与えられる

この武田攻めによって武田家が滅亡すると、森長可はその功績を称えられ武田家の領地であった信濃の高井・水内・更科・埴科の4郡と海津城を与えられました。

これにより、今まで居城としていた兼山城は弟の森蘭丸に与えられています。

森長可が任された信濃は上杉氏のいる越後と隣接しており、その上杉氏と手を結んだ旧武田家家臣も存在するなど、政情が不安定な状態でした。

まもなくして飯山城に入った味方の稲葉貞通が一揆勢に囲まれると、森長可はこの一揆勢をまたたく間に鎮圧し事なきを得ますが、信濃の統治が簡単ではないと痛感します。

そこで森長可は、信濃の地侍の妻子や一揆に加担したと見られる百姓も居城の海津城に住まわせるなど、領内の統治を強化してゆきます。

 

 

「本能寺の変」が起こったその後の森長可のエピソード

天正10年6月2日に「本能寺の変」によって織田信長が横死すると、統治を始めたばかりの信濃は一気に様子が変わってしまいます。

森長可は「本能寺の変」の後どのような行動をとったのかご紹介します。

「本能寺の変」のその後:旧領に戻る時の森長可の手紙のエピソード

「本能寺の変」の時、森長可は越後の上杉氏の領地へと侵攻し、重要な拠点である春日山城にほど近いところまで進軍していました。

しかし、知らせを聞いた森長可は信長のかたきを討つべく旧領の兼山まで引き返すことにします。

ところが、信長の死の報を聞いた信濃の地侍達は森長可に反旗を翻し一揆を扇動して対立するようになります。

そうした状況の中、「信濃の有力者であった木曾義昌が森長可の暗殺を企てている」という密告を受けると、森長可はその木曾義昌に対し、日付を指定して訪問すると手紙を送りました。

しかし、森長可はその指定した日付の前日の深夜に木曾義昌の居城に押し入り、幼い木曾義昌の息子を人質にとっていったのです。

こうすることで、木曾義昌が妙な行動を起こさないようにし、かつ他の信濃の地侍達の行動も制止させるよう仕向けたわけです。

こうして森長可は無事に旧領の兼山までたどり着き、最大の危機を脱したのでした。

なお、この時人質にとった木曾義昌の息子は、安全圏までたどり着いた時に開放されています。

 

「本能寺の変」のあと森長可は豊臣秀吉に仕える

「本能寺の変」のあと、その後の織田家の行く末は清須会議で決まり、信長の直系の孫にあたる三法師の後見人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が実権を握るようになります。

森長可はその羽柴秀吉に仕えるようになり、東美濃の諸氏から秀吉への取次役を任されたことをきっかけに、その東美濃で勢力を拡大することに成功しました。

旧武田家の領地を任された織田信長の他の家臣は、「本能寺の変」の後にひどい憂き目にあうことが多かったなか、森長可はこれをうまく切り抜けた数少ない人物でしょう。

 

 

森長可の最期「小牧長久手の戦い」と遺言状について解説!

「本能寺の変」以後も秀吉に仕え、東美濃を統治するなど順調に活躍の場を広げていた森長可ですが、その最期は武人らしく合戦でその生涯を閉じました。

森長可の最期は「小牧長久手の戦い」で徳川家康軍に討ち取られる

羽柴秀吉(豊臣秀吉)が織田家を牛耳るようになると、織田信長の次男の信雄が不満をつのらせ徳川家康と手を組んで対立します。

そして両陣営の対立は決定的になり、ついに天正12年(1584年)3月に「小牧長久手の戦い」が勃発し、尾張各地で合戦が繰り広げられるようになりました。

この「小牧長久手の戦い」において森長可は義理の父である池田恒興とともに秀吉方について戦います。

しかし、この戦いにおいて徳川家康の本隊と激突した森長可は、敵の放った鉄砲の弾で眉間を撃ち抜かれてしまいました。

森長可を討ち取った報を聞いた徳川家康は「1000の首を取ったに等しい」と言ったとか。

敵対していた徳川家康にとっても、それほどまでに森長可が恐ろしかったのだということがわかりますね。

森長可はこの時27歳。若すぎる最期でした。

 

森長可の意外な遺言状を紹介

さて、森長可はこの「小牧長久手」の戦いに臨むにあたり遺言状を残していました。

その遺言状を簡単にまとめると下記のような内容です。

  • 名物の茶器は秀吉に譲る。
  • 仙千代(弟・忠政)は秀吉のそばで奉公すべき。
  • 拠点の兼山は他の信頼できる部将に任せる。
  • 自分の娘は医者に嫁がせるのがよい。決して武士の妻などにはしないように。

「鬼武蔵」と恐れられ、数々の武勇伝や逸話の残る森長可ですが、意外にもその遺言状の中で娘を武士の妻にしないように言い残しています。

森長可は男の兄弟が5人いましたが、遺言状のなかでも触れている忠政を除いた他の4人の兄弟は戦で命を落としています。

また、父である可成もまだ少年の頃に戦で失っています。

戦で家族を失うという悲しみが心に深く刻まれていた為、残っている家族にはその悲しみを味わわせたくはない、そんな森長可の思いがにじみ出ているように感じますね。

なお、森長可の死後、この遺言状に反し秀吉は仙千代(弟・忠政)を跡継ぎにして兼山にとどめ置きました。

 

 

まとめ

  • 森長可は森可成とえい(妙向尼)の次男として生まれる。
  • 兄・可隆と父・可成が相次いで討ち死にした為、わずか13歳で家督を継いだ。
  • 織田信長との逸話から「鬼武蔵」の異名をもち、「人間無骨」という槍で数々の武功をあげた。
  • 武田攻め(甲州征伐)でも織田信忠を驚かせるほどの活躍をし信濃を与えられた。
  • 「本能寺の変」後、一旦旧領の兼山に戻り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えるようになる。
  • 秀吉の家臣として「小牧長久手の戦い」に参戦し、この戦いで討ち死にしてしまった。
  • 「小牧長久手の戦い」前に遺言状をしたため、残る家族の身を案じていた。

ちなみに、父の森可成と弟の森蘭丸についても下記の記事でご紹介していますので、興味のある方はこちらもぜひ読んでみて下さい。

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