戦国時代

北条早雲(伊勢宗瑞)は何した人なのか家系図や年表から解説!検地や領地経営の功績についても

2020年10月4日

北条早雲は、戦国時代に相模国の小田原城を拠点とした「北条氏」の祖で、下剋上によってのし上がった戦国大名の始まりとも言われる人物です。

ところで、そんな北条早雲は一体どんな人物で、何をして名を馳せたのでしょうか?

この記事では、そんな北条早雲について家系図や年表から簡単に解説しています。

※この記事では、一般的に知られている「北条早雲」または「早雲」と表記しています。

 

目次

北条早雲(伊勢宗瑞いせそうずい)とはどんな人物なのか家系図から簡単に解説!

出典:Wikipedia

出生地 備中荏原荘(現在の岡山県井原市) 高越城にて出生
生年 康正2年(1456年)
没年 大永3年(1519年)享年64歳

「北条早雲」の名前について

もともとは「伊勢新九郎盛時いせしんくろうもりとき」と名乗っていましたが、後半生は入道して「早雲庵宗瑞そううんあんそうずい(伊勢宗瑞)」と称すようになりました。
家督を継いだ氏綱が「北条」性を名乗るようになり、自ら「北条早雲」を名乗ったことはなく、これは後世の人々の呼び名です。

北条早雲の家系図:鎌倉時代の北条政子の子孫とは無関係

北条早雲の出自に関しては様々な議論がありますが、現在最も有力なのは備中伊勢氏の出自で、将軍家に仕える伊勢氏の流れを汲んだ名門の出であるとされています。

前述のとおり、あとを継いだ氏綱が「北条」に改姓したのであって、北条早雲は自らを「北条」と名乗ったことはなく、鎌倉時代に北条政子の子孫が執権として権力を握った「北条氏」とは全く別の一族です。

なお、上記の家系図からわかる通り、早雲が今川氏との関係を深めたのをきっかけに、その子孫も姻戚関係を結んで良好な間柄だったことが見て取れます。

ちなみに、鎌倉時代の「北条氏」と、戦国時代の「北条氏」の違いについては、下記の記事でもご紹介していますので、こちらも併せてよんでみて下さい。

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戦国大名の先駆け:下剋上でのし上がった人物だった?

北条早雲は室町幕府の関東における将軍とも言える「堀越公方ほりごえくぼう」の足利茶々丸ちゃちゃまるを滅ぼし、その拠点であった伊豆を平定したのをきっかけに相模も支配したことで、下剋上によってのし上がった戦国大名の先駆けとも言われました。

しかし、この「堀越公方」足利茶々丸の襲撃は、京都の将軍家の家督争いに連動して、幕府関係者からの意向を受けて引き起こされたものであり、下剋上とは異なるという説もあります。

ただ、幕府関係者の意向を受けたものであったとしても、その後北条早雲が伊豆を支配するのは事実であり、やはり自らの為に行った下剋上だという見方もあります。

自らの意志で行った下剋上かどうかはともかく、北条早雲がこの襲撃をきっかけに勢力を拡大していったことは事実で、旧来とは異なる戦国大名の先駆けであったことは間違いないでしょう。

 

長生きで大器晩成の人物だったというのは誤り

かつて、北条早雲は永享4年(1432年)に生まれ88歳まで生きた長寿の人物で、50歳を過ぎてから歴史の表舞台に登場した大器晩成の人物とされていました。

しかし、近年の研究からこの生年は別の人物と混同されたものであり、また北条氏に関係する寺院に北条早雲は享年64歳だったという記録があったことなどから、現在では康正2年(1456年)生まれの享年64歳説が有力視されています。

 

 

戦国大名の始まりと言われる北条早雲は、何をした人なのか年表から簡単に解説!

さて、それでは具体的に北条早雲は何をした人物なのか、時系列で解説していきましょう。

康正2年(1456年):備中荏原荘びっちゅうえばらしょう(現在の岡山県井原市)高越城にて生まれる

前述のように、北条早雲の出生については様々な議論があり、かつては一介の素浪人だったという説もありますが、現在では備中荏原荘(現在の岡山県井原市)の出身であることが有力視されています。

伊勢氏は室町幕府の政所執事(所領や財政などを管轄)を歴任したエリートの家系で、早雲自身も当初は将軍家に仕える身だったようです。

 

文明8年(1476年):甥の竜王丸たつおうまる(今川氏親うじちか)と小鹿範満おじかのりみつの家督相続争いを調停

早雲の姉・北川殿が今川家の当主・義忠に嫁ぎ、文明3年(1471年)に嫡男の竜王丸を生みます。

ところが、その5年後の文明8年(1476年)に当主・義忠が亡くなると、家督をめぐって一族の小鹿範満と争いが起こります。

当時、嫡男の竜王丸はまだ幼少であった為、早雲の提案により、竜王丸が成人するまでは小鹿範満が家督を継ぐということでまとまりました。

当初は家督相続争に関して両派に分かれて争っていたところ、うまく仲介してまとめたことで、早雲は今川家に対して影響力を持つようになったのです。

 

長享元年(1487年):駿河へ下向し小鹿範満を討つ

竜王丸が元服し、家督を継ぐにふさわしい年齢になったものの、小鹿範満は一向に譲る気配が見られませんでした。

こうしたことから、長享元年(1487年)、早雲は挙兵して小鹿範満を討ち、甥の竜王丸を今川家の当主に据えることにしました。

この活躍が認められ、早雲は駿河の東部に所領を与えられ、興国寺城こうこくじじょう(現在の焼津市)の城主となりました。

また、この年に9代将軍・足利義尚の奉行衆となっており、この時期は京都の足利将軍家と駿河の今川家を行き来する状態だったようです。

 

延徳3年(1491年):「伊勢新九郎」名義の最後の文書。この頃に入道し「早雲庵宗瑞」と名乗る?

前述のとおり、「北条早雲」は後世の呼び名で、もともとは「伊勢新九郎」を名乗っていました。

現在わかっている史料では、この「伊勢新九郎」名義のものは延徳3年(1491年)のものが最後で、この頃に入道して「早雲庵宗瑞」を名乗っていたと考えられています。

 

明応2年(1493年):伊豆の堀越公方・足利茶々丸を襲撃(伊豆討ち入り)

京都を拠点とする室町幕府は、関東など東国の監督機関として「鎌倉公方かまくらくぼう」を設置しました。

しかし、この「鎌倉公方」は内紛によって「古河公方こがくぼう」と「堀越公方ほりごえくぼう」に分裂していました。

この「堀越公方」には、京都の幕府将軍家から派遣された足利政知まさともが就任しており、その政知には正室の円満院えんまんいんとの間に清晃せいこう(のちの将軍・義澄よしずみ)と潤童児という子と、異母兄弟の茶々丸がいました。

延徳3年(1491年)にその政知が亡くなると、茶々丸が異母の円満院とその子の潤童児を殺害する事件が起こります。

当時、清晃(将軍・義澄)は京都にいて不在だった為、この事件に巻き込まれることはありませんでしたが、母と弟を殺害した茶々丸を討つべく早雲に命じて茶々丸を襲撃させたのです。これを「伊豆討ち入り」といいます。

ただ、この「伊豆討ち入り」の動機は諸説あり、ここでご紹介した「清晃(将軍・義澄)の復讐説」「幕府関係者の意向説」あるいは「早雲自身の野望説」などがあり、はっきとしたことはわかっていません。

ただ、いずれにせよこの「伊豆討ち入り」をきっかけとして、早雲は伊豆の韮山城にらやまじょうを拠点に移し、「戦国大名・北条早雲」の歴史が始まったと言えるでしょう。

なお、この「鎌倉公方」「古河公方」「堀越公方」の対立と分裂の歴史は、下記の記事でご紹介していますので、こちらも参考にしてみて下さい。

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明応4年(1495年):相模の大森藤頼を討ち小田原城を奪取?(奇策の逸話)

伊豆の韮山城を拠点に移した早雲は、相模国を視野に入れるようになります。

まず、大森藤頼おおもりふじよりの守る小田原城を狙いますが、当時から堅牢な城として名高かった為、正攻法では太刀打ちできないと考えた早雲は、奇策を練って小田原城の奪取を試みます。

早雲は鹿狩りと称して箱根山の兵を入れ、夜になると牛の角に松明たいまつをつけて大群襲撃のように見せかけ、敵の兵を慌てさせて城を楽々と奪ったのです。

この逸話は軍記物の『北条記』に描かれたものなので、真偽のほどは不明です。

また、小田原城の奪取した年月についても不確かなところが多く、明応5年(1496年)から分亀元年(1501年)までの間とする説もあります。

 

明応7年(1498年):関戸吉信の守る深根城を攻略し伊豆を平定する

明応2年(1493年)に伊豆の茶々丸を襲撃したものの、その時は茶々丸を討つには至りませんでした。

というのも、伊豆の武将が茶々丸を手助けし、頑なに抵抗していたからです。

その有力者の一人が、伊豆の南部の深根城を守る関戸吉信せきどよしのぶで、明応7年(1498年)に早雲はこの関戸吉信の討伐に出陣します。

そしてこの関戸吉信を討ち取ると、追い込まれた茶々丸もついに観念し、自害して果てました。

こうして、茶々丸を打ち破った早雲は、完全に伊豆を平定したのでした。

早雲の伊豆統治

北条早雲は伊豆を統治するにあたり下記にょうな政策を実施します。

  • 兵の規律を正し、乱暴狼藉を厳しく禁じる。
  • 伊豆で病が流行った際に、薬を取り寄せる福祉政策を行う。
  • 税を、五公五民→四公六民に緩和する。
    (税を5割負担から4割負担に減らす)

これらの政策は領民の心をつかみ、伊豆は短期間のうちに平定されたといわれています。

永正3年(1506年):相模国で初めて検地を行う

早雲は永正3年(1506年)に相模南西部の宮地(現在の湯河原町)で検知を行いました。

当時は貫高制で、この時の貫高は81貫900文で、検知前の58貫600文から約40%以上年貢が増えたことになります。

これは、把握できていない田畑が多くそのままになっていた為で、これをきっかけに検地を進めることにしました。

ただ、検地によって領主は徴収する年貢が増えて得をしますが、これでは領民は不満に感じてしまいます。

そこで、用水路の保持や修繕にかかる費用など、領民の生活にかかる費用を経費として年貢から差し引く方式を取りました。

また、年貢高の算出についての過程を検地書出という文書に記し、領民が納得できるように年貢高を決めるようにしました。

のように、早雲は領民とお互いに納得できるかっこうで検地を始め、あとを継いだ氏綱もこれを引き継いでいます。

 

永正9年(1512年):相模の岡崎城・住吉城を攻略する

永正9年(1512年)、相模国で領土拡大を続ける早雲に対し、三浦氏や扇谷上杉氏おうぎがやつうえすぎらの激しい抵抗にあいながらも、三浦道寸どうすんの領地で相模国の重要な拠点であった岡崎城を攻略します。

敗れた三浦道寸は東部の住吉城まで後退しますが、早雲はその住吉城も攻略し相模国での領土を拡大したのでした。

この時、相模国の東部に玉縄城たまなわじょうを整備し、今後の相模国支配と武蔵国進出を視野に入れて足場を築いたのです。

 

永正13年(1516年):三崎城を攻略し相模三浦氏を滅ぼし相模国を平定する

依然として三浦道寸は抵抗を続けていましたが、永正13年(1516年)に早雲が三浦半島の三崎城を攻め立て、ついに三浦道寸を討ち果たします。

こうして相模国屈指の一族であった三浦氏を滅ぼし、伊豆国に続いて相模国も平定したのです。

 

永正15年(1518年):家督を嫡男の氏綱に譲る・「虎の印判状」の創設

永正15年(1518年)9月、早雲は隠居して嫡男の氏綱に家督を譲ります。

この年、「虎の印判状」を創設し、印の無い徴収命令は無効とすることでトラブル回避を行いました。

この「虎の印判状」は、後を継いだ氏綱の代から普及したのですが、その前例を作ったのが早雲でした。

 

永正16年(1519年):伊豆の韮山城で死去(享年64歳)

早雲は永正16年(1519年)に伊豆の韮山城で死去しました。

葬儀は修善寺にて執り行われ、2年後により箱根に菩提寺の早雲寺が創建されました。

 

 

まとめ

  • 北条早雲は将軍家に仕える名門「伊勢氏」の出自で、当初は幕府の奉行衆であった。鎌倉時代の「北条氏」とは無関係。
  • 出生について、近年の研究から享年64歳説が有力で、享年88歳という長寿説は見直されている。
  • 姉「北川殿」が今川氏親に嫁ぎ、家督相続争いの調停をきっかけに今川家との関係を深め、駿河に領地を得る。
  • 伊豆国の「堀越公方」足利茶々丸を討ち果たし、伊豆を平定する。
  • 相模国の三浦氏を滅ぼし、相模国を平定する。
  • 検地の実施や「虎の印判状」を考案するなど、優れた領国経営を行った。

さて、北条早雲(伊勢新九郎)の生涯を描いた、ゆうきまさみさん(『機動警察パトレイバー』や『じゃじゃ馬グルーミン★UP』など多数)の作品『新九郎、はしる』がビッグコミックスピリッツで連載中です。

早雲の幼少期から描かれており、当時の状況を漫画でわかりやすく知ることができるので、歴史好きの人にはピッタリです。

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