戦国時代

日本史の鎌倉公方・古河公方・堀越公方の違いや分裂の歴史をわかりやすく解説!

2020年8月11日

日本史で登場する「鎌倉公方」や「関東管領」は似た名前の人物も多く、さらには「古河公方」「堀越公方」なども登場し、混乱してしまう人も多いでしょう。

そこで、この記事ではその成り立ちや歴史とともに、「鎌倉公方」「古河公方」「堀越公方」の違いや分裂した理由を解説しています。

対立の構図がわかれば、複雑な関係性も整理できると思いますので、ぜひこちらの記事を有効活用してみて下さい。

 

室町幕府の「鎌倉公方」「関東管領」とは何かわかりやすく解説!

「鎌倉公方」「関東管領」とは何か?室町幕府の組織図から簡単に解説

幕府は京都に御所が置かれ、将軍を頂点としてその補佐役に管領が置かれました。

一方、地方は九州探題などの地方機関が設置され、それぞれの機関が統括する体制をとり、関東地方には鎌倉府が置かれ、その長官が「鎌倉公方」と呼ばれました。

また「関東管領」はその鎌倉公方の補佐役として設置され、当初は斯波氏や畠山氏など管領家からも専任されましたが、やがて関東地方に基盤を置く上杉氏が世襲するようになりました。

なお、関東管領は組織上は鎌倉公方の下に位置していますが、その任免権は幕府(将軍)にありました。

「鎌倉府」が統括するのは関八州と甲斐・伊豆を合わせた10国で、その統括エリアは下記の図のとおりです。

鎌倉府の管轄エリア

引用:Wikipedia

 

初代鎌倉公方は足利尊氏の子・足利基氏が就任

初代鎌倉公方に就任したのは足利尊氏の正室の子・足利基氏もとうじですが、就任当初はまだ幼かった為、親戚関係にあった上杉憲顕のりあきが補佐を務めました。

なお、歴代の鎌倉公方はこの足利基氏の子孫が務めることになります。

また、鎌倉公方・足利基氏を支えた上杉憲顕が後の関東管領となり、これが契機となって「関東管領・上杉氏」の世襲制が始まりました。

 

歴代の将軍・鎌倉公方の系図

上記の系図のとおり、鎌倉公方は初代の足利基氏から世襲され、幕府(将軍家)とは異なる系譜をたどっています。

その為、次第に鎌倉公方と幕府(将軍家)とは関係が崩れていき、「幕府(将軍家)」vs「鎌倉公方(古河公方)」という構図が出来上がってしまいます。

なお、「堀越公方」は「幕府(将軍家)」が「鎌倉公方(古河公方)」の対抗策として設置したものです。

 

 

「鎌倉公方」が「古河公方」「堀越公方」に分裂した理由と経緯や違いを解説!

それでは「幕府(将軍家)」と「鎌倉公方(古河公方)」の対立の経緯や、「古河公方」や「堀越公方」に分裂してしまった理由を簡単に解説していきましょう。

「3代将軍(足利義満)」 vs 「2代鎌倉公方(足利氏満)」対立

3代将軍の足利義満の時代に、幕府内部の抗争である「康暦の政変」が起こると、2代鎌倉公方であった足利氏満が将軍・義満に対して挙兵しようとします。

しかし、これは当時の関東管領・上杉憲春が自刃して諌めた為中断しましたが、このことで鎌倉公方の足利氏満と将軍足利義満との確執は決定的となりました。

また、自刃した上杉憲春の兄弟の上杉憲方が次の関東管領に就任しますが、その上杉憲方は将軍足利義満と通じるようになり、ここに「幕府(将軍家)・関東管領」vs「鎌倉公方」という構図が出来上がります。

その後、世代を追うごとに鎌倉公方と幕府(将軍家)の対立は深まっていきました。

 

1438年「永享の乱」:「6代将軍(足利義教)」 vs 「4代鎌倉公方(足利持氏)」対立

鎌倉公方と幕府(将軍家)の対立が頂点に達したのが、6代将軍・足利義教(以後:6代義教)と4代鎌倉公方・足利持氏(以後:4代持氏)の時代です。

鎌倉公方の子供は将軍の面前で元服し、その一字を貰い受ける習わしがありましたが、4代持氏はそれを無視して嫡男の義久を鶴岡八幡宮で元服させてしまいます。

当時の関東管領・上杉憲実はこれに反対すると、逆上した4代持氏はなんと上杉憲実を討伐してしまおうと考えます。

これに対し、6代義教は上杉憲実救援を名目にして4代持氏討伐に乗り出します。

攻められた4代持氏は永平寺に幽閉されると、上杉憲実は助命を願い出ますが6代義教はこれを許さず、それどころか上杉憲実に4代持氏を討つよう命じます。

そして、それに従い上杉憲実は4代持氏を討つべく永平寺を攻撃すると、観念した4代持氏はそこで自刃して果てました。

これを「永享の乱」と言い、4代鎌倉公方・足利持氏と嫡男の義久も亡くな後を継ぐものがおらず、ここで鎌倉公方一旦断絶となりました。

 

1455年「享徳の乱」の勃発:「5代鎌倉公方(足利成氏)」 vs 「関東管領(上杉氏)」対立

4代鎌倉公方の足利持氏が亡くなり、一度は途絶えた鎌倉公方ですが、関東の武士たちの要望により、幕府は生き延びた4代持氏の子・足利成氏を5代鎌倉公方(以後:5代成氏)として鎌倉府を再興することを許可します。

しかし、新たに関東管領に就任した上杉憲忠は、自分の父を死に追いやった上杉憲実の息子で、当然5代成氏とはうまくいくはずもなく、両者は対立します。

1455年、そうした状況の中、ついに5代成氏は上杉憲忠を殺害してしまいます。

これにより「5代鎌倉公方・足利成氏」vs「関東管領・上杉氏」という対立関係が生まれます。

この対立に端を発した一連の騒動を「享徳の乱」と呼びますが、その後幕府の介入もありさらに複雑化し、この争いはなんと28年にも及びました。

 

8代将軍足利義教の介入:「古河公方」と「堀越公方」へ分裂

5代成氏と関東管領・上杉氏の争いは関東地方のあちこちで起こり、5代成氏は自ら出陣して指揮をとり上杉氏陣営に勝利し続けます。

これに対し、上杉氏陣営は幕府に5代成氏討伐の要請を出しており、幕府はこれに応じて駿河の今川範忠を派遣しました。

関東各地を転戦していた5代成氏の留守をつき、今川範忠は鎌倉を占拠すると、5代成氏は鎌倉に戻ることを諦め、古河城を本拠とすることにしました。

これにより、5代成氏は「古河公方」と呼ばれるようになったわけです。

その後も古河公方・成氏と関東管領・上杉氏の対立は収まることはなく、この争いはやがて関東各地の武士にまで波及していきました。

こうした泥沼の状況に対し、当時の8代将軍義政は異母兄弟の足利政知を正式な鎌倉公方として派遣します。

ところが、足利政知は関東在住の武士たちから支持を得ることができず、鎌倉に入れずに手前の伊豆の堀越にとどまる事態になりました。

このことから、足利政知は「堀越公方」と呼ばれるようになり、もともとの「鎌倉公方」が、足利成氏の「古河公方」と足利政知の「堀越公方」に分裂する事態になってしまったのです。

こうして、争いは「古河公方(足利成氏)」vs「幕府・堀越公方・関東管領」という構図へとかわりますが、1467年に京都を中心に「応仁の乱」が勃発すると、幕府はそれ以後関東の争いに介入しなくなっていきました。

 

「古河公方(足利成氏)」vs「堀越公方・関東管領(上杉氏)」の争いの結末とその後

8代義政によって堀越公方が擁立された後、関東地方は「古河公方(足利成氏)」vs「堀越公方・関東管領」という構図で対立し続けていました。

しかし、関東管領の上杉氏の内部で反乱が起こり、これに危機感を覚えた当時の関東管領・上杉房顕は、古河公方・足利成氏に和議を申し出ます。

長年争いをしていた古河公方・成氏も流石に潮時と考えたのか、この提案を受入て両者はついに和睦し、その後1483年には幕府とも和睦が成立しました。

こうして1455年から28年間にわたって続いた「享徳の乱」は、1483年に古河公方・足利成氏と幕府との和睦成立によって終結したのです。ちなみにこの和睦成立を「都鄙合体とひがったい」と呼びます。

なお、足利成氏は引き続き「古河公方」として関東を統治することになり、伊豆は「堀越公方」の足利政知が統治することとなりました。

 

 

その後の「古河公方」「堀越公方」とその滅亡

最後に、「享徳の乱」が終結した後の「古河公方」と「堀越公方」がどうなったのかご紹介します。

「古河公方」のその後と滅亡

足利成氏の亡き後、「古河公方」はその子孫が歴任しますが、小田原の後北条氏が関東に進出してきたのを機に影響力を失ってしまいます。

「古河公方」として5代目の足利義氏が1583年に亡くなりますが、義氏には後を継ぐ男子の子供がいなかった為、これをもって「古河公方」は滅亡したとされています。

 

「堀越公方」のその後と滅亡

足利政知が亡くなった後、茶々丸が「堀越公方」を継ぎますが、当時は今川家に属していた北条早雲(伊勢宗瑞)に追放されてしまい、わずか2代で「堀越公方」は滅亡してしまいます。

ちなみに、北条早雲は戦国時代の「後北条氏」の祖とされ、のちにこの「後北条氏」が関東を支配していくことになります。

 

 

まとめ

  • 「鎌倉公方」は幕府の地方機関で、「関東管領」がその補佐を務める。
  • 3代将軍・足利義満と2代鎌倉公方・足利氏満の頃から対立が始まり、代を重ねるごとに関係は悪化する。
  • 5代鎌倉公方の足利成氏が古河に拠点を移し「古河公方」となり、その対抗策として幕府は「堀越公方」を派遣する。
  • 「古河公方」vs「幕府・堀越公方・関東管領」という図式で対立。
  • 「関東管領」上杉氏の内乱を機に、1483年に「古河公方」と「幕府」で和睦が成立する。

 

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