戦国時代に小田原城を拠点として関東一円を支配した「後北条氏」
その勢力拡大は、2代目の北条氏綱の頃から本格化し、武蔵国の江戸城や河越城を攻略していきした。
その北条氏綱の代から仕え、家中きっての猛将と呼ばれたのが「地黄八幡」こと北条綱成です。
この記事は、そんな北条綱成の「地黄八幡」の呼び名の由来や、合戦での逸話をご紹介しています。
外交能力もあった北条綱成とはどんな人物か簡単に解説!
まずは北条氏綱とはどんな人物なのか簡単にご紹介します。
「後北条氏」2代目・北条氏綱の代から仕え始める
北条綱成は永正12年(1515年)に、駿河の今川氏親の家臣であった福島正成の嫡男として誕生したとされていました。
ただ、最近の研究ではこの出自については疑問が示されており、はっきりとしたことはわかっていません。
いずれにしても、もともと北条家に仕えていた家柄ではなかったようで、2代目の北条氏綱の時代から仕えるようになりました。
北条氏綱は綱成のことをとても気に入り、自分の娘を妻に娶らせて「北条」を名乗らせたといいます。
なお、氏綱の後を継いだ3代目の氏康とは同じ年齢であり、義兄弟として相当な信頼をおいていたようです。
「北条五色備」の黄備えを担った猛将
北条家は黄・赤・青・白・黒の五色に分けて部隊(備え)が編成され、これを「北条五色備」と呼びます。
北条綱成はその「黄備え」を率いており、黄色地に染められた「地黄八幡」の旗指物がトレードマークになっていました。
武勇だけでなく外交能力もあった北条綱成
一般的に北条綱成は武勇に秀でた武将として知られていますが、白川晴綱・長尾当長・蘆名盛氏といった関東以北の武将との交渉など、武勇だけではなく外交でもその能力を発揮していました。
「地黄八幡」の由来とそれにまつわるいい話を紹介!
北条綱成の代名詞とも言える「地黄八幡」の旗指物。
この「地黄八幡」の由来や、それに関して武田信玄にまつわるエピソードをご紹介します。
北条綱成が「地黄八幡」と呼ばれた由来を紹介
先程ご紹介したように、北条綱成は「北条五色備」の黄備えを率いており、黄色地に「八幡」と書かれた旗指物を用いていました。
この旗から「地黄八幡」と呼ばれるようになったわけですが、これは「直八幡(じきはちまん)」の発音に由来しているそうです。
この「直八幡」とは「自分は八幡神(八幡大菩薩)の直流」であるという意味が込められています。
八幡神(八幡大菩薩)とは、鶴岡八幡宮に代表されるように武神として崇められた神様で、つまり北条綱成は「自分は武神の子孫だ!」とアピールしていたわけですね。
「地黄八幡」の旗指物にまつわるいい話
さて、この「地黄八幡」旗指物は現在、長野県の真田宝物館に現存しています。
なぜこの「地黄八幡」の旗指物が真田家にあるかというと、それは北条家と武田信玄との戦いにさかのぼります。
元亀2年(1571年)に綱成が守備していた駿河深沢城を武田信玄に対し開城して小田原に去った際、この「地黄八幡」の旗指物が城内に残っていました。
武田信玄は「左衛門大夫(綱成)の武勇にあやかるように」と、この「地黄八幡」の旗指物を真田信尹(真田幸村のおじ)に与え、それが現在まで残っているのです。
敵対する関係ではありますが、相手の武勇を尊重する思いが垣間見えるエピソードですよね。
なお、真田宝物館の場所はこちら↓
河越城の戦いで「勝った勝った」と叫んだ逸話とその意味を紹介!
さて、北条綱成の武勇を世に広めた一番の戦いは1546年の「河越城の戦い」でしょう。
その時の北条綱成の活躍や、この合戦にまつわる一風変わった逸話をご紹介します。
1546年「河越城の戦い」での活躍や『勝った勝った』と叫んだ逸話を解説
2代北条氏綱の時代に北条家は相模国から関東に進出し、扇谷上杉家から武蔵国の河越城を奪取していました。
しかし、氏綱が亡くなり氏康が家督を継いだ後、扇谷上杉家をはじめ関東の旧勢力が団結してこの河越城の奪還に乗り出しました。
1545年9月には、なんと80,000を超えるとも言われる大軍が河越城を包囲してしまいます。
この河越城を守っていたのが北条綱成で、味方の軍勢はわずかに3,000ほどだったといいます。
兵力のうえで圧倒的に不利な状況にありましたが、北条綱成は奮戦してなんと半年も持ちこたえます。
そして、北条氏康の率いる本隊が到着して攻撃を開始すると、相手は大混乱に陥りました。
北条綱成はこの隙きを見逃さず、自ら先陣をきって『勝った!勝った!』と叫びながら突撃していきます。
その声が味方の士気を高め、この甲斐もあって北条軍はこの「河越城の戦い」に勝利することができたのです。
なお、この「河越城の戦い」は「桶狭間の戦い」「厳島の戦い」と並んで「日本三大奇襲」のひとつにも数えられる戦いで、北条家が関東の支配を盤石なものとした意義のある戦いです。
この「河越城の戦い」については下記の記事で詳しくご紹介していますので、こちらもぜひ読んでみて下さい。
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北条氏康の河越城の戦い(河越夜戦)のエピソードは嘘?結果とその後の関東地方について解説!
引用:Wikipedia 小田原北条氏の中興の祖・北条氏康は、1545年から1546年にかけての「河越城の戦い」で勝利してその名を広くとどろかせました。 この「河越城の戦い」は、1555年「厳島の戦い ...
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まとめ
- 北条綱成は後北条氏2代目の北条氏綱の時から仕え、氏綱の娘を娶り「北条」を名乗る。
- トレードマークの「地黄八幡」の旗指物は「武神・八幡神の子孫である」というアピール効果があった。
- 1546年「河越城の戦い」で半年以上籠城し、『勝った!勝った!』と味方を鼓舞して大逆転勝利の立役者となった。