戦国時代

武田信玄の性格はひどい?同盟破りの歴史や長男義信を自刃させた経歴から解説!

2020年8月14日

戦国時代を代表する武将の武田信玄は、大河ドラマでも主役になったこともあり、戦略家で強いイメージでライバルであった上杉謙信とともに人気のある武将ですよね。

そんな知名度もあって人気の武将の武田信玄ですが、実際の性格は家族を酷い目にあわせたり、同盟をすぐに破ってしまうなど極悪非道な人柄だったようです。

この記事では、そんなダークな武田信玄の一面をご紹介しています。

 

武田信玄の性格はひどい?父親の追放や息子の義信を自刃させる非情な人柄

武田信玄の性格がひどいと思える理由のひとつは、家族に対して非情な行動をとっていることがあげられます。

まずはそのことについてご紹介していきましょう。

1541年:父親の武田信虎を追放してしまう

1541年、武田信玄の父の信虎は信濃を平定した後、娘婿の今川義元に会いに行くために拠点の甲斐から駿河へと出発すると、武田信玄の命によって家臣に街道が封鎖されてしまい、そのまま甲斐を追放されてしまいました。

なぜ武田信玄が父の信虎を追放してしまったのかは諸説あり、下記のような理由が考えられています。

  1. 信虎が信玄の弟の信繁を可愛がり、自分が当主になれないかもしれないと思ったから。
  2. 信虎の可愛がっていた猿を信玄の家臣が殺してしまい、その家臣を信虎が殺したことを恨んでいたから。
  3. 今川義元と裏でつながっていて共謀したから。

もともと武田信玄と信虎親子は仲が悪かったということもありますが、自分が家督を継いで当主になる為には手段を選ばないという非情な一面がわかりますね。

ちなみに、父の信虎はその後出家して隠居の身となって余生を過ごし81歳で亡くなりました。信玄よりも長く生きました。

 

1567年:嫡男の武田義信を自刃させる

1560年、「桶狭間の戦い」で織田信長が今川義元を討ち取ると、今川家と同盟を結んでいた武田信玄はその外交方針を転換させていきます。

信玄の嫡男の義信は、今川家との同盟に際し今川義元の娘を正室に迎えており、今川家との関係を重要視していました。

そのため、信玄が弱体化している今川家に攻め込む姿勢をとると、義信はこれに猛反発します。

1565年、そうした状況の中「義信が信玄を暗殺計画に関与した」という疑惑が持ち上がり、東光寺(山梨県甲府市)に幽閉されてしまったのです。

そして、それ以降信玄と義信の関係は修復されることなく、1567年に義信は自刃して亡くなりました。

この事件については、義信の傅役であった飯富虎昌が首謀者として成敗されますが、義信を殺害するつもりはなかったとされています。

とはいえ、今川家との外交方針の違いをめぐって嫡男の義信を追い込んだことは間違いなく、反対する者には誰であろうと容赦しないという人柄が現れていますね。

 

 

武田信玄は今川家や北条家などの同盟を破った理由とその歴史を紹介

さて、嫡男の義信の件でも触れた今川家との関係など、その時々の情勢で外交方針をコロコロ変えています。

それはつまり同盟関係を破っていることの裏返しでもあり、目的の為には手段を選ばないという武田信玄の性格や人柄の表れでもあります。

それではどれほど同盟を破ったのかご紹介していきましょう。

1542年:諏訪頼重との同盟を破り信濃へ侵攻

武田信玄の父の信虎は、信濃を攻略するに当たり在地の武将の諏訪頼重や村上義清らと同盟を結び、海野氏や真田氏を攻略しました。

ところが、1541年に信玄が父の信虎を追放すると、その翌年の1542年には同盟を破って諏訪頼重の領土に攻め込みます。

攻め込まれた諏訪頼重は敗れて降伏すると、信玄の本拠地まで連行され東光寺に幽閉され、そこで自害して果てました。

 

1548年:村上義清の領地へ攻め込む

1548年、諏訪頼重同様に父の信虎とは同盟を結んでいた村上義清に対しても、その同盟関係を破棄して侵攻を始めます。

しかし、この信玄の侵攻を村上義清は撃退し、さらに1550年に再び攻め込んできた武田軍を圧倒して大勝を収めます。

2度も武田信玄との戦いに勝利した村上義清ですが、その翌年に武田信玄の家臣となった真田幸綱(幸隆:真田幸村の祖父)の調略により砥石城が陥落すると、そこから一気に村上義清の勢力が落ちてしまいます。

そして、劣勢となった村上義清は上杉謙信を頼り、越後へと落ち延びたのでした。

なお、この村上義清の救援要請に上杉謙信が応じたことで、その後有名な武田信玄との「川中島の戦い」へと発展していくわけです。

 

1568年:今川家との同盟を破り駿河へ侵攻

1560年の「桶狭間の戦い」をきっかけに今川家が弱体化し、さらに1561年の上杉謙信との「川中島の戦い」でも決着がつかなかった為、甲斐から北へ領土拡大をとる政策をやめ、南の今川家の駿河に狙いを変えました。

こうした武田信玄の方針転換により、1568年には今川家との同盟を破り、駿河へ侵攻を開始したのです。

なお、今川義元の時代に治めていた駿河・遠江は、後を継いだ今川氏真の時代に武田信玄と徳川家康に奪われ、そのことにより戦国大名としての今川家は滅亡しました。

ちなみに、この今川氏真は今川家を滅亡に導いた愚将とされがちですが、果たして本当にただの愚将だったのでしょうか?

それについては下記の記事でご紹介していますので、今川氏真という人物について興味を持った人はぜひこちらも読んでみて下さい。

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1569年:徳川家康との同盟を破り遠江へ侵攻

前述の1568年の駿河侵攻に際し、同じく駿河を狙う徳川家康に対して「大井川を境にして領土を分け合う」という密約を交わします。

しかし、徳川家康が今川領の掛川城に攻撃をしている最中、武田軍はこの密約を破る行動を起こし、これが引き金となって結果として徳川家康との関係に深い亀裂が入ります。

なお、この当時徳川家康と織田信長は「清洲同盟」という同盟関係にありましたが、武田信玄が徳川家康が対立したあとも織田信長とは友好関係にありました。

ちなみに、その後武田信玄と徳川家康は「三方ヶ原の戦い」で対決し、この戦いで武田信玄は完勝しています。

 

1572年:織田信長との同盟を破り再度駿河へ侵攻

1567年、織田信長は斎藤龍興の美濃を攻略しこれを治めると、武田信玄の甲斐とは領地が近づくことになります。

そこで、両者は互いに背後をつかないように姻戚関係を結び同盟を組みました。

1568年に織田信長が足利義昭を上洛させ将軍に就かせると、武田信玄は織田信長を通じて将軍・足利義昭を仲介役にし、上杉謙信との和睦を図りました。

このように、武田信玄と織田信長はこの時期は友好関係にあったのですが、やがて織田信長と足利義昭が対立して「信長包囲網」を形成すると、武田信玄はそれに加わって織田信長と対立姿勢を取り始めます。

そして1572年、その足利義昭からの要請に応えるかっこうで出陣し、同盟関係にあった徳川家康の領土へと侵攻してきたのです。

この時、武田信玄と徳川家康との争いが「三方ヶ原の戦い」と呼ばれる戦いで、徳川家康が大敗して恐怖のあまり脱糞してしまったという逸話(創作)でも有名ですね。

一方、それまで同盟関係を保っていたにも関わらず、突然進軍を始めた武田信玄に対し、織田信長は「信玄の所行は前代未聞の無道さであり、侍の義理を知らぬことだと。今後は未来永劫、信玄とは二度と手を結ぶことはない」と書状にもその怒りを爆発させています。

ところが、「三方ヶ原の戦い」の後、武田信玄はその道中で病に倒れ亡くなり、結果的に織田信長と直接対決することはついにありませんでした。

 

まとめ

戦国武将の中でも知名度と人気抜群の武田信玄ですが、その性格や人柄は下記の理由から意外とダークだったということをご紹介しました。

  • 父親の信虎を追放したり、嫡男の義信を自刃に追い込むど、家族に対しても非情な行動をとった。
  • 様々な武将と同盟を結ぶものの、次々にそれを破って侵攻を繰り返した。

いかがでしたでしょうか。

武田信玄についての逸話は「甲陽軍鑑」という後世に作られた軍記物の内容が広く知られているわけですが、武田信玄がメインとして描かれているので、誇張したり美化されているケースが多々あります。

ただ、他の多くの武将のエピソードについてもこうした軍記物からのイメージが強くあり、実像と違うことはよくあることなんですね。

近年では、軍記物以外の史料から武将の実像に迫る研究も進んでいますので、他の戦国武将についても意外な一面がみられるかもしれませんね。

 

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