戦国時代

武田信玄と織田信長の直接対決の戦が無かった理由を解説!手紙や子供の結婚の関係性を紹介!

戦国時代を代表する武将の織田信長と武田信玄。

それぞれ、数々の合戦を繰り広げそれにまつわる逸話やエピソードも数多くありますよね。

ところが、織田家と武田家が戦った「長篠の戦い」は有名ですが、それは武田信玄の子の勝頼の時代のことで、信長と信玄が直接対決する戦いはついにありませんでした。

この記事では、なぜ織田信長と武田信玄が戦うことが無かったのか、両者の関係性から解説しています。

 

 

武田信玄と織田信長の直接対決の戦が無かった理由を解説!

それでは早速、織田信長と武田信玄の直接対決がなかった理由を解説していきましょう。

お互いに戦う余裕がなく同盟を結んだから

織田信長と武田信玄が外交するようになるのは、織田信長が1560年の「桶狭間の戦い」の後に美濃の攻略に向けて動き出してからのことです。

それまでは織田信長の拠点である尾張と、武田信玄の拠点である甲斐は地理的な関係から外交していた形跡はみられません。

しかし、1563年に織田信長が居城を小牧山に移し美濃攻略を本格化させると、俄然お互いの領土が近くなるわけです。

美濃攻略に集中したい織田信長と、信濃攻略に集中したい武田信玄。

お互いに「邪魔されたら困る」という思惑が一致し、1565年に両者は同盟を結んでいるのです。

両者ともそれぞれのメリットを考え、争うのではなく同盟を結んで手を組んだほうが得策と判断していたわけですね。

 

直接対決する前に武田信玄が亡くなってしまったから

上記のとおり、織田信長と武田信玄は同盟を結んで友好関係にありましたが、後年にその関係性が崩れ直接対決になりそうな状況にもなりました。

というのも、織田信長と将軍の足利義昭が対立し始め、その足利義昭が「信長包囲網」を形成すると、武田信玄もそれに加わり進軍を始めたのです。

そして、織田信長と同盟関係にあった徳川家康の領土へ侵攻すると、これを圧倒してさらに進軍します。

仮に武田信玄がこのまま西へと進軍していれば、織田信長と直接対決の戦いが勃発したかもしれません。

しかし、武田信玄はその途上で病に倒れて亡くなってしまい、武田軍は踵を返して甲斐へと帰還したのです。

こうして、織田信長と武田信玄は直接対決することはありませんでしたが、その後を継いだ武田勝頼と1575年に「長篠の戦い」で争うことになったわけです。

さて、信長との対立は武田信玄が同盟を破ったことに端を発しているわけですが、武田信玄は実はかねてから同盟を破ってばかりの武将でした。

その武田信玄の黒歴史は下記の記事にまとめましたので、興味のある人はこちらも読んでみて下さい。

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武田信玄と織田信長は実は仲が良かった?手紙や子供の結婚から解説!

さて、最終的には対立してしまった織田信長と武田信玄ですが、それまでは友好関係にあったわけです。

それはお互いの子供を結婚させて親戚関係を築いていることからもわかりますし、ここ最近、武田信玄が織田信長に宛てた手紙の発見からもそれが明らかになりました。

武田信玄と織田信長の関係を示す手紙を紹介

2020年1月、武田信玄が織田信長に宛てた手紙が発見されました。

信長からの手紙に返答する形で書かれており、「お気遣いをいただき、どのようにお礼してよいか分かりません」と信玄は切り出す。その上で「越後(上杉氏)と甲斐(武田氏)が戦争になったら、何をおいても(信玄に)お味方くださるとのこと、頼もしく存じます」と謝意を伝えている。

日付は「七月十四日」。宛名には、敬意を示す「謹上」の言葉を添えて、「弾正忠殿だんじょうのじょうどの」と信長の通称のみを記す。名字を省くのは、室町幕府高官宛ての書状にも見られる丁重な書式で、丸島准教授は、信長が足利義昭を将軍に奉じて上洛じょうらくし、権力を確立した永禄11年(1568年)10月以降の書状とみる。川中島合戦後、いったん和睦した信玄と謙信は、元亀元年(1570年)10月に停戦を破棄していることから、両者の緊張が高まった同年7月に書かれた可能性が高いという。

引用:2020年1月13日付 読売新聞オンラインより

このように、対立するわずか数年前までは、織田信長と武田信玄は友好関係にあったことがはっきりわかります。

織田信長が武田信玄にどのような手紙を送ったのかは不明ですが、援護してもらう側の武田信玄がかなり低姿勢であることもわかりますね。

 

武田信玄と織田信長は子供を結婚させて関係を強める

織田信長と武田信玄が友好関係にあったことを示すもう一つの要因は、1565年に同盟を結んだ時にお互いの子供を結婚させ姻戚関係を結んでいることがあげられます。

武田信玄の息子の勝頼に対し、織田信長は養女・龍勝院りゅうしょういん(姪で遠山直廉とおやまのぶかどの娘)を妻として差し出し、反対に信長の嫡男・信忠に対し信玄は娘の松姫(信松尼しんしょうに)を妻として差し出しています。

このように、お互いの子供同士を結婚させ姻戚関係を結んでおり、両者は同盟関係を強固にしようとしていたことがわかります。

 

対立したのは武田信玄が裏切ったから?

上記のように、手紙のやり取りや子供同士の結婚によって、織田信長と武田信玄は強固な同盟関係にあったわけです。

しかし、前述のとおり足利義昭が「信長包囲網」を敷き、信長が窮地に陥るや否や武田信玄は同盟を破棄して「反・織田信長」に方針転換してしまったのです。

さかのぼれば、1560年「桶狭間の戦い」で信長によって今川義元が討たれ今川家が衰退の道をたどると、武田信玄は同盟関係にあった今川家の領土へ侵攻を始めるなど、同盟関係にあってもスキがあればすぐに裏切る行動をしています。

獲るか獲られるかの戦国時代では、こうした武田信玄の動向は「戦略家」として称賛されたのかもしれません。

ただ、なんとなく英雄のようなイメージを抱いていた人にとっては、意外な実像に驚くかもしれませんね。

 

 

まとめ

  • 織田信長と武田信玄の直接対決の戦いがなかったのは、お互いのメリットを考えて同盟を結んでいたから。
  • 両者は手紙のやり取りや子供同士の結婚により姻戚関係を築き、当初は友好関係を築いていた。
  • 対立のきっかけは足利義昭の「信長包囲網」に武田信玄が加わり、織田信長との同盟を破ったから

 

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