戦国時代を代表する武将の織田信長と上杉謙信は、1577年「手取川の戦い」で争っています。
この時は織田信長が自ら出陣したわけではありませんが、大敗して驚愕したと言われています。
ただ、両者はそれまで同盟を結んでいた時期もあり、手紙のやり取りや贈り物をする仲でした。
この記事では、そんな織田信長と上杉謙信との関係について、なぜ同盟していたのに争うようになったのか、その経緯と理由をご紹介します。
目次
織田信長と上杉謙信は手紙や贈り物をする同盟関係の仲だった
まずは織田信長と上杉謙信が同盟を結ぶに至った経緯や、その間の両者の関係性についてご紹介します。
1572年:織田信長と上杉謙信が同盟を結んだ経緯や理由を解説
1572年11月、織田信長と上杉謙信は同盟を結びます。
この時期、織田信長と対立した将軍・足利義昭が「信長包囲網」を形成し、それに加わった武田信玄が京都へ向けて進軍を始めました。
この進軍の際、武田信玄は徳川家康を「三方ヶ原の戦い」で圧倒し、その強さを見せつけてさらに西へと進軍します。
徳川家康と同盟関係にあった織田信長は、武田信玄との対立が決定的となり、その武田信玄の対策として上杉謙信と同盟を結ぶことを模索しました。
一方、この時期の上杉謙信は越中に進出していましたが、武田信玄の煽動によって越中一向一揆が起こり、その対応に追われているところでした。
お互いに武田信玄という共通の敵がおり、その対抗策として同盟を汲むことはお互いにメリットがあるため、こうして織田信長と上杉謙信は同盟を結んだわけです。
織田信長が上杉謙信に宛てた手紙や贈り物について紹介
さて、同盟を結んだ織田信長と上杉謙信ですが、どちらかと言えば「信長包囲網」と武田信玄の進軍に危機感を覚えた織田信長が、上杉謙信に頼るかっこうで結ばれたものでした。
そのため、織田信長から上杉謙信に宛てた手紙は相当気を使った跡がみられます。
また、織田信長は上杉謙信に対して南蛮の赤いビロードのマントを贈っており、上杉謙信は「これが南蛮の物か」と喜んだそうです。
この他にも織田信長は上杉謙信に対して、狩野永徳作の洛中洛外図屏風を贈っており、この屏風には上杉謙信が上洛した時の様子が描かれていて、上杉謙信の気を引こうとしている様子が伺えます。
このように、織田信長と上杉謙信は手紙や贈り物をするなど、当初は良好な関係を築いていたことがわかりますね。
なぜ織田信長と上杉謙信は「手取川の戦い」で争ったのか経緯と理由を解説!
さて、1572年11月に同盟を結んだ織田信長と上杉謙信ですが、その後1577年には「手取川の戦い」で争うようになります。
なぜ両者は争うようになってしまったのか?その理由や経緯を解説していきます。
織田信長と上杉謙信が対立するまでの経緯
1572年に同盟を結んだ当初は、お互いに「反・武田信玄」という共通した敵がおり、それがこの同盟の大きな柱でした。
ところが、翌年にはその武田信玄が病で死んでしまい、共通の敵を失ったことで同盟の意義が薄れてきます。
これを機に織田信長は足利義昭を京から追放し、「信長包囲網」を形成していた浅井・朝倉連合も撃破すると、1575年には「長篠の戦い」で武田勝頼に大勝し、信長にとって残る脅威は石山本願寺だけという状況になりました。
一方、上杉謙信はこの間に越中や関東に出陣しており、この間は特に織田信長と協調することも敵対することもなかったようです。
潮目が変わったのは、1576年に毛利輝元の庇護下にあった足利義昭が、再び信長に対して敵意を向けてきたことです。
足利義昭は、長年上杉謙信を悩ませていた一向一揆の指導者である本願寺顕如との和睦を仲介し、それとともに幕府の再興の為に援助を求め、再び「信長包囲網」を形成しようとしました。
上杉謙信はこれを受け入れ、毛利家・石山本願寺と同盟をくんで「信長包囲網」に加わったのです。
1577年:織田信長軍vs上杉謙信「手取川の戦い」を簡単に解説
越中を攻略した上杉謙信は、1577年7月に守護の畠山氏の居城である七尾城を包囲します。
七尾城側では城内に疫病が発生し、当主の春王丸までもが病死するという悲惨な状況でした。
そこで重臣の長続連は、織田信長に援軍を要請すると、それを受けた織田信長は8月には柴田勝家を大将として4万の軍勢を援軍として派遣します。
一方、その情報を得た上杉謙信は、9月15日に城内の内紛に乗じて七尾城を陥落させると、織田軍を迎え撃つために驚異的なスピードで南下し、23日に松任城に到着します。
その頃、手取川を渡ったところですでに七尾城の陥落を知った織田軍は、救援の目的を失った為に退却を始めました。
これを好機とみた上杉謙信は、9月23日の深夜に渡河中の織田軍を急襲すると、大混乱に陥った織田軍は壊滅的な打撃を受けてしまいます。これがいわゆる「手取川の戦い」と呼ばれる戦いです。
圧倒的な勝利を得た上杉謙信は、この「手取川の戦い」のあと『歴代古案』に収録されている書状の中で
「(織田信長は)案外に手弱の様体、この分に候わば、向後天下(京都)までの仕合せ、心やすく候」
「(織田信長は)案外弱く、この分ならこれから京都へ上洛すまでの戦いもたやすかろう」
と、織田信長軍に対して圧勝したことを誇示しています。
このように、上杉謙信はこの「手取川の戦い」で織田信長軍に対して圧倒的強さを見せつけたことも「軍神」と呼ばれるゆえんなんですね。
1578年に突然死(死因:脳溢血)した上杉謙信:もっと長く生きていたらどうなっていたか考察!
「手取川の戦い」に勝利した上杉謙信は、その後一旦居城の春日山城に帰還し、翌年3月には次なる遠征に向けた準備を始めていました。
ところがその矢先の3月9日、上杉謙信は突然亡くなってしまいます。死因は脳溢血であったようです。
この遠征では上洛して織田信長を討つ目的があったとも言われており、もし上杉謙信が生きていたら織田信長と直接対決することになっていたかもしれません。
この時期の織田信長は、石山本願寺と対峙して苦戦を強いられており、前年には松永久秀が謀反を起こし、波多野秀治や荒木村重なども謀反を起こすなど、織田家中は混乱状態にありました。
仮にこうした状況下で上杉謙信が織田信長のもとへ攻め込んできていたら、織田信長は壊滅的な打撃を受けていたかもしれません。
また、「信長包囲網」を形成した足利義昭を始め石山本願寺、毛利輝元らも上杉謙信の進軍を当てにしていたことでしょうから、謙信の突然の死は大きな誤算となり戦況に大きな影響を及ぼしたことでしょう。
これらの事を踏まえると、もし上杉謙信があと数年長く生きていたら、織田信長は討ち取られていた可能性もあり、それによって足利義昭が再び将軍として権威をふるっていたかもしれません。
史実ではその後織田信長が各地を平定していき、その後1582年の「本能寺の変」をきっかけに、羽柴秀吉がやがて天下統一を成し遂げるわけですが、もしかしたら戦乱はもっと長引いていたかもしれませんね。
それにしても、かつても足利義昭が「信長包囲網」を形成した時も、京都へ上洛する途中で武田信玄が急死しましたし、今回の「信長包囲網」の時も出陣間際で上杉謙信が急死して、結果的に織田信長は救われたことになります。
そういう意味では織田信長は運をも味方につけていたと言えますね。
まとめ
- 1572年に上杉謙信と織田信長は共通の敵・武田信玄の対抗策として同盟を結ぶ。
- 当初は織田信長が上杉謙信に対し、赤いビロードのマントや狩野永徳の洛中洛外図を贈るなど、両者は友好関係にあった。
- 1576年に足利義昭が形成した「信長包囲網」に上杉謙信も加わり、両者は対立するようになる。
- 1577年、上杉謙信は「手取川の戦い」で織田軍に圧勝する。
- 上杉謙信があと数年長く生きていたら、織田信長は敗れて将軍・足利義昭が権威をふるったかもしれない。