戦国時代

太田資正が犬を使って松山城(埼玉県)を救った逸話を解説!上杉謙信との関係についても

2020年8月1日

引用:Wikipedia

戦国時代に埼玉県で活躍した有名な武将は?と言われると、すぐに名前を挙げられる人は少ないでしょう。

その理由として考えられるのは、織田信長の活躍した「THE 戦国時代」の武蔵国(埼玉県含む)は、すでに北条家の支配が確立し、それを大きく覆すほどの変化が無かったことが挙げられます。

戦国時代の黎明期から関東を支配した北条家は、その後1590年の豊臣秀吉「小田原攻め」まで続き、その勢力は全国的にも強大なものでした。

とはいえ、そんな強大な北条家に一矢報い、さらには武田信玄と北条家との連合軍にも約1年間も抵抗し続けた武将が武蔵国にいました。

その武将というのが、岩付城(埼玉県さいたま市岩槻区)の城主・太田資正すけまさという人物です。

この記事では、そんな太田資正について、武蔵国での活躍を中心に合戦で犬を使ったという逸話や、軍神・上杉謙信との関係についてご紹介しています。

 

太田道灌の子孫・太田資正とはどんな武将か家系図から解説!

一般的に戦国時代の始まりと言われる「応仁の乱(1467年~)」よりも前の時代に、関東地方では関東の足利将軍家と関東管領の上杉家(山内上杉家・扇谷おうぎがやつ上杉家)を中心として泥沼の争いが続いていました。

この争いは「享徳きょうとくの乱」と呼ばれ、1455年からなんと28年間にわたって断続的に争いが続いていたのです。

その「享徳の乱」で、扇谷上杉家の家宰として無類の強さを誇ったのが太田道灌どうかんという人物です。

その太田道灌は、のちに徳川家康が居城とした江戸城(現在の皇居)を築いた人物で、太田資正はその子孫にあたる人物なんですね。

さて、その太田資正とはどんな武将だったのか、家系図を含めて簡単にご紹介しましょう。

ちなみに、近年ではこの「享徳の乱」が発端となって「応仁の乱」が起こったとも言われ、また、関東では「応仁の乱」に先駆けてすでに戦国時代に突入していたという見解もあります。

なお、この「享徳の乱」については下記の記事でもご紹介していますので、歴史の変遷を知る上でも読んでもらえると嬉しいです。

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太田資正は太田道灌のひ孫:家系図から関係を解説

太田資正は大永2年(1522年)に、太田資頼の次男として誕生しました。

その系図をさかのぼると、太田資正は太田道灌のひ孫に当たります。

その太田道灌には二人の男の子供がおり、そのうち岩付城(埼玉県さいたまし岩槻区)を拠点とした資家の家系を「岩付太田家」といいます。

太田資正はその「岩付太田家」の流れを汲んでいるわけです。

なお、太田資正の子供・氏資は、北条氏康の娘・長林院を妻に迎えており、北条氏とは姻戚関係にありました。

 

戦国時代に武蔵国(埼玉県)で北条氏康に抵抗する

太田道灌の頃から、岩付太田氏は関東管領の扇谷上杉家に仕えていました。

しかし、相模国を拠点としていた北条氏が関東進出をはたすと、武蔵国を含む関東地方一帯は北条氏が支配するようになります。

そうした状況の中、扇谷上杉家や山内上杉家、古河公方(足利将軍家)といった旧勢力が団結し、新興勢力の北条家と戦います。

この戦いは『河越城の戦い』と呼ばれ、北条家の関東地方での拠点となっていた河越城をめぐる一連の戦いで、この戦いに太田資正も扇谷上杉家の一員として参戦しています。

なお、この時は兄の太田資顕(全鑑)が当主で、太田資正は松山城にいました。

しかし、この戦いは後に「日本三代奇襲」のひとつに数えらる「河越夜戦(1546年)」により、北条家(当主:氏康)の勝利で幕を閉じ、これにより扇谷上杉家は滅亡します。

この「河越城の戦い」については下記の記事でもご紹介していますので、こちらもぜひ読んでみて下さい。

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この戦いで敗れた太田資正はからくも生き延び、居城だった松山城を追われ一時的に上野新田(群馬県太田市)の横瀬家に身を寄せます。

しかし、そのわずか数カ月後、北条氏康が安房国(千葉県)の里見氏との戦いに出陣していた隙きをつき、太田資正は北条家に奪われた松山城を奪い返すと、すぐさま岩付城も奪取します。

このように、北条氏康に一矢報いた太田資正の行動は関東一円に知れ渡り、その名を広くとどろかせました。

しかし、一度は奪った松山城ですが、太田資正が岩付城に移った後に城主となった上田朝直が北条家に寝返り、さらに北条家の大軍に岩付城も包囲されてしまった為、1548年にやむなく降伏したのでした。

その後、しばらくの間は北条家の家臣として仕えることになりますが、その間は奥州の伊達輝宗との取次を務めたり、自らの子供同士を結婚させ姻戚関係を結ぶなど、北条氏康も太田資正に対して一目を置いていたようです。

しかし、1560年を境に再び北条氏康と対立し始めると、1564年の第二次国府台合戦で敗れ、さらに親北条派だった息子の氏資に岩付城を占拠されてしまい、太田資正は追放されてしまったのでした。

その後は常陸国の佐竹義重を頼り、そこで片野城や柿岡城の城主となって活躍し、佐竹義重とともに北条家と争い続けました。

 

 

太田資正が犬を使って松山城(埼玉県)を救った逸話を解説!

さて、太田資正は当時大きな勢力を誇った北条氏康から松山城を奪い返すなど、強大な相手に立ち向かった武将として軍記物にたびたび登場しています。

中でも、太田資正が知恵者で犬を使うという奇抜な策で戦いに勝利したという逸話が有名です。

太田資正が犬を使って松山城を救援した逸話を紹介

『甲陽軍鑑』によれば、太田資正は幼少期から犬が好きで、松山城と岩付城にそれぞれ犬を50匹飼っていたとあります。

松山城で裏切りがあり、北条氏康がそれに呼応して同城に出陣した際には、飛脚も出せぬ包囲の中、その松山城から岩付城への連絡手段として犬の首に手紙を入れた筒を結んで運ばせ、見事に後詰(籠城への救援)を果たしました。

松山城を包囲し連絡手段も絶ったはずにも関わらず、太田資正が岩付城からあまりにも早く駆けつけた為、敵である北条方の人々は驚き不思議がったといいます。

この逸話が広まり、江戸期に書かれた軍記物にはたびたび登場し、「知恵者・太田資正」を印象づけるようになりました。

 

伝令犬の逸話は本当だった?

軍記物は物語を面白くする為に、創作だったり誇張された逸話も多々あります。

さて、それでは太田資正が松山城と岩付城との伝令に犬を使っていた逸話は本当だったのでしょうか?

結論から言うと、これは実際にあった本当のことだと考えられています。

太田資正の三男・太田資武が父・資正から聞いた話をまとめた書状『太田資武状』によれば、1560年以降に北条氏康と対立していた頃、実際に伝令犬を使っていたという記述があります。

この『太田資武状』は、太田資正を研究するにあたり信憑性の高い史料とされており、このことから太田資正は実際に伝令犬を使っていた、と考えられているのです。

戦国時代の逸話は、面白いけどちょっと信じがたいものが多く、この伝令犬の逸話もその一つと思われるかもしれません。

でもそれが本当のことだというのですから興味深いですよね。

 

太田資正は上杉謙信の家臣?関係性を解説!

さて、一時期は北条氏康に降り家臣となり、それなりの活躍をみせていた太田資正ですが、1560年を境に突如として反旗を翻しました。

それはなぜなのか解説していきましょう。

永禄3年(1560年)上杉謙信の関東進出に同調する

1560年、越後の軍神・上杉謙信が関東に領土を広げる為に進軍を始めます。

すると、この動き警戒した北条氏康は、太田資正に対して同盟関係の重要性や両家の姻戚関係を書き連ね、上杉謙信に寝返らないよう訴えかけています。

しかし、上杉家を継ぎ関東管領となった上杉謙信こそが真の同盟者だと考えた太田資正は、この上杉謙信の関東進出に呼応し、北条氏康に反旗を翻すようになったのです。

さらに、上杉謙信が北条家の拠点としていた小田原城攻めの先鋒を務めるなど、上杉謙信の関東進出に大きな役割を果たしたのでした。

こうして、太田資正をはじめ関東の旧勢力とともに、上杉謙信は大軍を率いて小田原城を攻めますが、結局攻め落とすことはできず、上杉謙信はそのまま越後へと帰還してしまいます。

ちなみに、上杉謙信が関東へ遠征した目的などについては、下記の記事でご紹介していますので、こちらも併せて読んでみて下さい。

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上杉謙信が越後へと引き上げていくと、北条氏康はすぐさま反転攻勢にでて、寝返った三田氏などを攻め滅ぼしてしまいます。

そして、上杉謙信に寝返った太田資正に対しても、北条氏康は何度もその拠点である松山城を攻めますが、太田資正は先程ご紹介した伝令犬の活用などでこれをしのいだわけです。

しかし、こうした抵抗を続けるも、武田信玄を味方につけた北条氏康に押され、ついには居城を開城して敗北してしまったのでした。

この北条氏康と武田信玄の連合軍に対し、太田資正が徹底抗戦を続けたこの戦いは「松山合戦」と呼ばれ、1562年3月頃から翌年2月の約1年間にも及びました。

 

上杉謙信に意見し関係は崩れるも、上杉謙信に後悔させる

1569年、それまで敵対関係にあった上杉謙信と北条氏康が同盟(越相同盟)を結びます。

この同盟は、これまで反北条家の関東の武将が、頼りとしていた上杉謙信の後ろ盾を失うことを意味し、その急先鋒であった太田資正は激しく反対します。

しかし、結局この同盟は締結され、さらには上杉・北条の間で反対する太田資正の処遇も問題になりました。

この越相同盟の結果、太田資正は岩付城に戻るかわりに当時仕えていた佐竹義重から離れ、居城であった片野城などの所領を放棄することを要求されました。

しかし、これには猛烈に反発し、その後上杉謙信から上野国へ出陣し二度と片野城に戻るなという命令が下るも、これを無視して反対に北条方の小田城を占拠しました。

このように反抗的な姿勢をとる太田資正に対し、ついに上杉謙信は絶縁状を突きつけて関係を絶ってしまいます。

しかし、上杉謙信はすぐにこの判断を後悔し、家臣を通じて関係修復を図ったのでした。

軍神・上杉謙信をして、本格的に敵対関係になることを恐れさせた太田資正は、それほどまでに影響力のある人物だったということがよくわかります。

かつては北条氏康も太田資正が裏切らないよう、直々に手紙を送っていたこともありましたし、いかに太田資正の存在が大きかったかもうかがい知れますね。

 

 

まとめ

  • 太田資正は太田道灌のひ孫にあたり、前半生は武蔵国の岩付城(埼玉県)の城主であった。
  • 関東に進出してきた北条家と戦い、奪われた城を奪い返す。
  • 北条家に敗れしばらくは家臣として仕えるが、上杉謙信の関東進出に呼応し北条氏康と対立する。
  • 1562年から約1年間「松山合戦」で北条氏康・武田信玄の連合軍と戦い、この時に伝令犬が活用された。
  • 「松山合戦」に敗れた後は常陸国の佐竹義重を頼り、常陸国を拠点として断続的に北条家と争い続けた。

さて、今回ご紹介した太田資正については、下記の書籍を参考にしました。

この記事ではごく簡単にご紹介しましたが、こちらの書籍では太田資正の系譜やその活躍・ゆかりの地など、一次資料をもとに網羅されています。

これをきっかけに、さらに詳しく知りたいと思った方はぜひ読んでみて下さい。

太田資正と戦国武州大乱~実像と戦国史跡~

また、こちらの書籍の執筆者の方や、太田資正として日々有益な情報を提供されている方のツイッターアカウントをご紹介します。

フォローすると、様々な角度から太田資正を知ることができると思いますよ。

(@medieval_oota)さん

ご紹介した『太田資正と戦国武州大乱』(まつやま書房)の2章を執筆されています。

ライフワークとして太田資正の研究に取り組まれていて、その知識は歴史学者そのものです。

 

(@sukemasa_ota)さん

太田資正の逸話やエピソードだけでなく、古今東西の埼玉県の歴史や豆知識もたくさんツイートされています。

また、そうした話題を時事ネタとからめて発信されてるので、楽しみながら色々と知識を得ることができますよ。

 

(@sannraku)さん

太田資正と北条氏との関係をメインにツイートされています。

ご紹介したように、太田資正は北条氏康を始めとする小田原北条氏と長らく対立しており、その対立関係をより深く知ることができますよ。

 

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