「学問の神様」といえば菅原道真、というように「お菓子の神様」と呼ばれる人物がいます。
その人物は田道間守(たじまもり)と言い、第11代垂仁(すいにん)天皇に仕えた人物です。
さて、「お菓子の神様」田道間守とはどんな人物だったのか?なぜ「お菓子の神様」と呼ばれるようになったのか?
仕えていた垂仁天皇との伝説をもとに解説していきます。
目次
お菓子の神様・田道間守、垂仁天皇とはどんな人物か簡単に解説!
まずは「お菓子の神様」と呼ばれる田道間守と、仕えていた垂仁天皇とはそれぞれどんな人物だったのか簡単に解説します。
唱歌になる程の忠臣だった田道間守
田道間守は、新羅(現在の朝鮮半島)からの渡来人・天日矛(あめのひほこ)の子孫で、清彦の子であるとされています。
田道間守の一族の系譜をたどると、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、住吉大社に祀られる神功皇后(じんぐうこうごう)の親戚にあたります。
後述する垂仁天皇との伝説が元となり、田道間守は天皇への忠誠心の厚い人物だったとされています。
また、その忠誠心が称えられた唱歌も作られました。
田道間守の唱歌
香りも高い橘を
積んだお船が今帰る
君の仰せをかしこみて
万里の海をまっしぐら
今帰る 田道間守 田道間守
田道間守が仕えた垂仁天皇とはどんな人物?家系図も併せて
第11代垂仁天皇は、崇神天皇の皇子として生まれ、よく知られているヤマトタケルの祖父にあたる人物です。
詳細は不明ですが、3世紀後半から4世紀前半頃に生きた人物とされています。
いとこに当たる沙本毘売命(さほびめのみこと)を皇后に迎えますが、兄・沙本毘古王(さほびこのみこ)の謀反により、沙本毘売命は自害することになるという悲しい逸話があります。
また、その沙本毘売命との間に生まれた本牟智和気命(ほむちわけのみこと)は、大人になっても口がきけなかったという逸話もあります。
これらの逸話や、今回ご紹介する田道間守との関係など、垂仁天皇は悲しく切ない伝説や逸話が多く残されています。
田道間守と垂仁天皇の橘(みかん)にまつわる伝説を解説!
それでは「お菓子の神様」と呼ばれるようになったきっかけの、田道間守と垂仁天皇との伝説を解説していきます。
垂仁天皇の命で非時香菓を求めて旅立った田道間守の伝説
ある日、垂仁天皇は田道間守に命じて、常世国(とこよのくに)にあって、食べれば不老不死になると言われている非時香菓(ときじくのかくのみ)を採りに行かせました。
垂仁天皇の命に従って田道間守は旅立ち、長い年月をかけてようやく常世国にたどり着きました。
そして、念願の非時香菓を持って垂仁天皇のもとへ帰ってきました。
ところが、田道間守が旅にでている間に垂仁天皇は崩御しており、それを知った田道間守は悲しみに明け暮れます。
そして「天皇はすでに崩御され、帰ってきた報告をすることもできません。私は生きていても何の甲斐がありましょう」と言って、垂仁天皇の御陵の前で号泣し、自ら命を絶ってしまったのです。
田道間守が持ち帰った非時香菓が当時の橘で、それが改良されて現在のみかんになったとされています。
この伝説から、垂仁天皇の命に従って長い年月をかけて橘を持ち帰ったことや、天皇の崩御とともに殉死を遂げた田道間守は、忠誠心の厚い人物と見なされるたのです。
田道間守が「お菓子の神様」と呼ばれるようになった理由
さて、橘を持ち帰った田道間守が「お菓子の神様」と呼ばれるようになったのは、古代では果物のことを「菓子」と呼んでいたことによります。
聖武天皇が「橘は菓子の長上、人の好むところ」と言ったように、古代において橘は最高級の「菓子」でした。
その最高級の「菓子」橘を長い年月をかけて持ち帰ったことから、田道間守は「お菓子の神様」と呼ばれるようになったのです。
「お菓子の神様」田道間守を祀る神社を紹介!
今回ご紹介した「お菓子の神様」田道間守を祀る有名な神社をご紹介します。
橘本神社(和歌山県海南市)
田道間守が持ち帰った橘を最初に移植したといわれる「六本樹の丘」があります。
また、毎年4月の第1日曜日には「菓子祭り・全国銘菓奉献祭」が行われます。
住所・アクセス
住所
和歌山県海南市下津町橘本125
アクセス
○JRきのくに線 「加茂郷」駅から車で約10分
中嶋神社(兵庫県豊岡市)
毎年4月に「菓子祭り」が行われ、お菓子のくじ引きやもちまきが行われ、大勢の参拝客で賑わいます。
また、前日には神社周辺が歩行者天国になり、菓子の販売や実演販売などが行われます。
※2019年は4月21日(日)、前日祭が4月20日(土)に開催
住所・アクセス
住所
兵庫県豊岡市三宅1
アクセス
○JR山陰本線「豊岡駅」から「奥野行」の全但バス「中嶋神社」すぐ。もしくは「神美経由出石行」の全但バス「森尾口」~徒歩15分
相撲や埴輪の始まりに関する伝説・逸話のある垂仁天皇
「お菓子の神様」田道間守が仕えた第11代垂仁天皇は、実は相撲や埴輪の始まりに関わる伝説や逸話のある天皇でもあります。
これらの伝説や逸話については下記の記事でまとめたので、気になった人はぜひこちらも御覧ください。
-
バキ道のモデル野見宿禰と当麻蹴速の伝説の戦いを日本書紀から解説!相撲の原型についても
長い歴史を誇る日本の国技・相撲は、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)という人物の戦いが始まりだとされています。 その戦いについては日本最古の正史(国家の正式な歴史書)『日本書紀』に書 ...
続きを見る
このように、あまり知られていない第11代垂仁天皇については、日本の歴史書『古事記』や『日本書紀』で知ることができます。
特に『日本書紀』は古代の天皇に関する伝説や逸話が数多く記されていて、現在まで続く文化や風習の始まりを知ることもできます。
また、2020年は『日本書紀』編纂1300年の記念の年でもあり、これをきっかけに『日本書紀』に触れてみてはいかがでしょうか。