日本の歴史において「北条氏」は鎌倉時代と戦国時代にその名をとどろかせていますよね。
どちらも武家として有名な為、同じ一族なのかと思う人もいるかもしれませんが、実はそうではありません。
この記事では、そんな二つの「北条氏」について関係性や違いについてご紹介しています。
目次
鎌倉時代の執権「北条氏」と戦国時代の相模(小田原)の「後北条氏」の関係や違いを解説!
それでは鎌倉時代の執権「北条氏」と戦国時代に相模国の小田原城を本拠とした「後北条氏」の関係や違いについてご紹介していきましょう。
※区別する為、戦国時代の「北条氏」は「後北条氏」と表記しています。
鎌倉時代の「北条氏」と戦国時代の「後北条氏」は関係ない?
さて同じ「北条氏」を名乗っている為、同じ一族かと思うかもしれませんが、両氏族は関係ありません。
というのも、戦国時代の「後北条氏」の祖とされる北条早雲は、もともと伊勢宗瑞(盛時)という名前で、「北条」ではなかったのです。
戦国時代の後北条氏が「北条」を名乗ったのは2代目の氏綱の時代からで、初代の北条早雲はあくまでも後年の呼び名であって、生前には一度もその名で呼ばれていなかったと言います。
なお、この記事の中では一般的に知られている「北条早雲」で表記することにします。
ただし、北条早雲のルーツをたどると桓武平氏の流れをくみ、鎌倉時代の初代執権の北条時政もさかのぼると同じ桓武平氏に行き着く為、元をたどれば同じ一族であるという説もありますが、これは複数ある出自の一つの説なので、はっきりとしたことはわかっていません。
ちなみに、この北条早雲については下記の記事でご紹介していますので、こちらも併せて読んでみて下さい。
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北条早雲(伊勢宗瑞)は何した人なのか家系図や年表から解説!検地や領地経営の功績についても
北条早雲は、戦国時代に相模国の小田原城を拠点とした「北条氏」の祖で、下剋上によってのし上がった戦国大名の始まりとも言われる人物です。 ところで、そんな北条早雲は一体どんな人物で、何をして名を馳せたので ...
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鎌倉時代の「北条氏」と戦国時代の「後北条氏」の違い(家紋など)
さて、鎌倉時代の「北条氏」と戦国時代の「後北条氏」の違いについてみていきましょう。
●家紋の違い
ご覧のとおり、どちらも三角形を用いた家紋でとてもよく似ていますね。
鎌倉時代の「北条氏」の家紋は正三角形を用いた家紋であるのに対し、戦国時代の「後北条氏」は二等辺三角形を用いているという違いがありますね。
この家紋は「三つ鱗」と呼ばれ、その名の通り三つの鱗をデザインしたものです。
北条氏がこの「三つ鱗」を家紋にしたのは、鎌倉幕府の初代執権なった北条時政の不思議な逸話に由来しています。
北条時政は江ノ島弁財天に子孫の繁栄を願い祈願すると、突如高貴な女性が現れお告げをしました。
すると、たちまち女性は大蛇(おろち)に変身し 海に姿を消してしますが、そこには三枚の鱗が残っていたそうです。
お告げを聞いた北条時政は、その三枚の鱗を大事にして家紋にすることにしたのです。
●立場の違い
鎌倉時代の「北条氏」は、鎌倉幕府の執権として権勢を誇っていました。
幕府は日本の武家の頂点に位置していますから、現代の感覚で言えば内閣にあたる存在と言えるでしょう。
一方、戦国時代の「後北条氏」は、室町幕府を武家の頂点とした制度の地方を統治する大名であり、言わば都道府県知事のような存在と言えます。
わかりやすく簡単に言うと、「国」を統治していた「北条氏」と、「地方」を統治していた「後北条氏」という立場上の違いがあると言えますね。
「後北条氏」はなぜ「北条」を名乗ったのか解説
ところで、戦国時代の「後北条氏」の祖である北条早雲は「伊勢氏」であったのに、なぜ2代目の氏綱は「北条」に改姓したのでしょうか。
それは、一言で言うと当時の領地をめぐる戦略によるものです。
どういうことかと言うと、2代目の氏綱が家督を継いで間もない頃、当時はまだ小田原城周辺までの領地で、それより北部の関東地域は支配していませんでした。
本格的に関東地域全域の支配を目指す2代目の氏綱は、「伊勢氏」よりも鎌倉時代に関東で栄華を誇った「北条氏」の方が関東の武士には馴染みがあると考え「北条」を名乗るようになったのです。
つまり、関東地域支配を目指すうえで、「北条」を名乗った方が「我こそは関東の覇者である」という威光を見せつけられると考えたわけです。
言ってしまえばイメージ戦略のひとつとして「北条」を名乗ったと言えますね。
「北条氏」と「後北条氏」はいつから始まりなぜ滅亡したのか解説!
ところで、鎌倉時代の「北条氏」と戦国時代の「後北条氏」はそれぞれいつから始まり、そしていつ滅亡したのかご紹介しましょう。
鎌倉時代の執権「北条氏」の始まりと滅亡
北条時政 引用:Wikipedia
●始まり:1203年・・・北条時政が初代執権に就任
鎌倉幕府の初代執権は、源頼朝の妻・北条政子の父である北条時政です。
北条時政の出自については諸説あり定かではなく、ここでは北条時政が執権として権力を持った時期を「北条氏」の始まりとします。
●滅亡:1333年・・・第14代執権・北条高時の時代の「元弘の乱」で敗れる
北条氏の滅亡は、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を掲げて起こった「元弘の乱」によります。
後醍醐天皇の一連の倒幕運動「元弘の乱」は1331年4月頃から全国各地に広がり、1333年の5月に「東勝寺合戦」で当主の北条高時をはじめとする得宗家の面々が亡くなりました。
これをもって「北条氏」は滅亡し、それとともに鎌倉幕府も終焉を迎えたのです。
つまり、鎌倉時代の執権「北条氏」は1203年から1333年の約130年間続いた、ということになりますね。
ただし、これはあくまで目安であって、学術的に定義されたものではありません。
戦国時代の「後北条氏」の始まりと滅亡
北条早雲 引用:Wikipedia
●始まり:1487年・・・北条早雲(伊勢宗瑞)が駿河に所領を得る
戦国時代の「後北条氏」の祖は北条早雲(伊勢宗瑞)で、もともとは室町幕府の家臣の伊勢氏の出自とされています。
北条早雲は姉の嫁ぎ先であった駿河の今川氏の家督相続争いに介入すると、姉の子である氏親を今川家の当主の座につけます。
これにより、1487年頃に今川家氏親から駿河に所領を与えられ、ここを足がかりに北条早雲の領地拡大の活動が本格化していきました。
ただ、その後北条早雲は駿河から離れ、自力で伊豆を支配したことをもって「後北条氏の始まり」と考えることもできますし、あるいはその誕生をもって始まりとすることもできます。
ここでは、戦国大名の一歩を踏み出した時期を「後北条氏の始まり」と捉えることにします。
●滅亡:1590年・・・豊臣秀吉の「小田原攻め」で降伏
関白となった豊臣秀吉は四国や九州を平定し、奥州を制した伊達政宗も豊臣秀吉に恭順を示すと、従わない有力大名は「後北条氏」くらいになりました。
4代目当主の北条氏政とその子で5代目当主の氏直親子は、それでもかたくなに抵抗姿勢を取り続けると、豊臣秀吉は大軍を率いて居城の小田原城を包囲します。
総勢20万とも言われる大軍に包囲され、ついに氏政・氏直親子は豊臣秀吉に降伏しました。
その後、氏政は切腹させられてしまい、当主の氏直は助命されるものの高野山へと追放され、ここに戦国大名としての「後北条氏」は滅亡しました。
初代・北条早雲の戦国大名としての活動が本格的に始まったのが1490年前後とすると、5代目当主の氏直が1590年に豊臣秀吉に降伏して滅亡するまで、戦国時代の「後北条氏」は約100年間続いたと考えられますね。
まとめ
- 鎌倉時代の執権「北条氏」と戦国時代の「後北条氏」は血縁関係はない。
- どちらも「三つ鱗」の家紋を使用しているが、デザインが異なる。
- 鎌倉時代の「北条氏」は国政、戦国時代の「後北条氏」地方自治を担う立場の違いがある。
- 戦国時代の「後北条氏」が「北条氏」を名乗ったのは、関東支配を目指す戦略のひとつだった。
- 鎌倉時代の「北条氏」は初代執権・北条時政に始まり、14代執権・北条高時の時に滅亡した
- 戦国時代の「後北条氏」は初代・北条早雲に始まり、5代目・北条氏直の時に滅亡した。