引用:Wikipedia
小田原北条氏の中興の祖・北条氏康は、1545年から1546年にかけての「河越城の戦い」で勝利してその名を広くとどろかせました。
この「河越城の戦い」は、1555年「厳島の戦い」・1560年「桶狭間の戦い」と並んで「日本三大奇襲」のひとつに数えられる劇的な戦いです。
それゆえ、この戦いには様々なエピソードがありますが、実はそのエピソードは嘘だった可能性があります。
なぜそう言えるのか?この戦いのエピソードをご紹介しつつ、その点を解説していきましょう。
目次
当時の北条氏康の状況と「河越城の戦い」の経緯を解説!
まずは当時の北条氏康のおかれた状況と、なぜ「河越城の戦い」が起こったのかその経緯をご紹介していきましょう。
1541年に北条家の3代目当主となる
北条氏康は、先代の北条氏綱が亡くなったことにより、1541年に北条家の当主に就任します。
父である2代目の氏綱は姓を「北条」に改めると、関東に領土を拡大する政策を打ち出します。
その足がかりとして1524年に扇谷上杉家の江戸城を奪取すると、1537年には同じく扇谷上杉家の拠点であった河越城も奪い、またたく間に武蔵国(東京・埼玉)の大半を支配しました。
さらに1538年には安房(千葉県)の里見氏とも争い、その勢力を弱体化させ関東地方南部に支配領域を拡大させます。
しかし、こうした北条氏綱の関東進出に対し、旧来の関東の諸将は反感を抱いており、領土を拡大したとはいえ周りは敵が多い状態でした。
そういった情勢のなか、1541年に北条氏綱が亡くなり、嫡男の北条氏康が当主として後を継ぐことになったのです。
駿河の今川義元など周りを敵に囲まれる
相模国の小田原城を本拠とする北条家は、駿河の今川家や甲斐の武田家と隣接しており、お互いに牽制し合う状態でした。
そうした地理的な勢力関係がある中、2代目の北条氏綱は甲斐の武田信虎を共通の敵とみなし、駿河の今川義元と同盟関係を築いていました。
ところが、1536年にその今川義元があろうことか武田信虎と同盟を結んでしまった為、北条氏綱は激怒して駿河に侵攻し今川領の河東2郡を奪い取ってしまいます。(第一次河東の乱)
その後、両者は緊張状態が続く中、北条氏綱が1541年に亡くなると、1545年に今川義元はこの奪われた領地を取り戻そうと挙兵しました。(第二次河東の乱)
このように後を継いだ北条氏康は、当主となった時から厳しい情勢のなかにいたのです。
関東管領の上杉憲政や扇谷上杉朝定・古河公方など関東の武将が連合
さて、北条氏綱が進出してくる以前の関東地方は、古河公方(元は鎌倉公方)や関東管領を歴任する山内上杉家・扇谷上杉家の間で長年に渡り争いが起こっていました。
この三者の争いは約100年近く続いており、それにより各勢力も弱体化していった結果、あっさりと北条氏綱に関東の要所を奪われたしまったのです。
それまで敵対していた山内上杉家の上杉憲政や扇谷上杉家の上杉朝定は、この状況を苦々しく思い「打倒・北条家」を掲げ手を結ぶと、北条方についていた古河公方の足利晴氏も引き込み、旧来の関東諸将を集めて大連合を形成しました。
そして、前述した今川義元の動きに呼応して、北条家から関東の要衝である河越城の奪還を目指し80,000人を超える大軍で河越城を包囲したのです。
「河越城の戦い」の戦況を解説!「日本三代奇襲」のエピソードは嘘?
駿河を捨て河越城を優先した北条氏康の決断
1545年8月に今川義元が河東に攻め込んでくると、北条氏康はその対応の為に出陣していました。
しかし、同年9月に両上杉家や古河公方の連合軍が80,000の大軍で河越城を包囲すると、今川義元から奪った河東2郡を返還することで和議を結び、8,000人の兵を率いて河越城の救出に向かいます。
この時、河越城を守るのは猛将で知られる北条氏綱で、わずか3,000の兵力で抗戦していたと言われています。
北条氏康の援軍8,000を加えてもその兵力差は歴然ですが、駿河2郡を放棄してまでも河越城を優先するという英断を下したわけですね。
「河越城の戦い」の奇襲のエピソードを解説
さて、連合軍は1545年の9月から河越城の包囲を始めますが、籠城側の守りも固くなかなか切り崩せずに半年ほど膠着状態が続きます。
連合軍の兵は長陣により戦意が低下し、さらには北条氏康が連合軍に対し「兵を助けてくれれば城は明け渡す」といった降伏を申し出る詫び状をたびたび出していたことから、「北条氏康は戦意がない。楽勝で勝てる」といった気の緩みがありました。
そうした戦況のなか、1546年4月20日の夜、北条氏康は突如として反転攻勢にでます。
北条氏康は自軍8,000を四隊に分け、そのうち3隊を率いて敵陣に向かうと、兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせて奇襲をしかけました。
この時、夜襲を成功させる為に夜目であっても味方を識別できるように全員に白い陣羽織を着用させ、行軍の秘匿のため松明や指物の使用を禁じ、敵の首級は打ち捨てるように指示し、機動力を優先させたと言われています。
突然現れた北条軍の敵襲に対し、油断しきっていた連合軍は大混乱に陥り上杉朝定など大将格の武将が次々と討ち死にします。
北条氏康は、降伏を申し出るといった弱腰な素振りを見せ相手を油断させ、用意周到に夜襲を仕掛けて見事にこの戦いに勝利したわけです。
これにより、河越城を包囲していた連合軍を一掃すると、北条氏康は関東の支配を盤石のものとしていったのです。
日本三大奇襲のひとつと言われる「河越城の戦い」の奇襲は創作?
さて、ご紹介したように「河越城の戦い」は兵力差10倍にも関わらず、北条氏康の巧みな戦術によって奇襲をしかけて勝利した戦いで、その大逆転のエピソードから「日本三大奇襲」のひとつにも数えられています。
しかし、この「河越城の戦い」についてのエピソードは『北条記』や『北条五代実記』など、後世に書かれた軍記物での記述に過ぎず、それを裏付ける当時の史料はほとんど存在しません。
さらにこれらの軍記物は、その名のとおり北条氏を中心に記されたものである為、脚色された創作であるという見方が強まっています。
近年の研究では、同じく「日本三大奇襲」のひとつに数えられる「桶狭間の戦い」も、実際は奇襲ではなかったという見方も強まっています。
ただ、いずれにしても「河越城の戦い」で関東の連合軍に対し北条氏康が勝利したことは間違いありません。
では、どうして北条氏康はこの戦いに勝利できたのかというと、それは岩付城主の太田全鑑の裏切りによるところが大きいようです。
当初は扇谷上杉家の家臣として、連合軍側についていた太田全鑑ですが、1546年の3月に北条氏康の調略によって北条方に寝返ると、その翌月には「河越城の戦い」は収束に向かいます。
この太田全鑑がいた岩付城の支配領域は、河越城から北東や東へ向かう道を塞ぐ形で展開され、ここが北条方に転向したことで連合軍の退路が断たれます。
つまり、「河越城の戦い」で北条氏康が勝利した要因は、軍記物で語られるような奇襲によるものではなく、調略による形成逆転によるところが大きいと考えられます。
なお、この太田全鑑には太田資正という弟がおり、皮肉なことにその太田資正は長年にわたり北条氏に対抗し続けます。
この太田資正については犬を使って戦ったという逸話もあり、かなり面白い武将ですので下記の記事も併せて読んでみて下さい。
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「河越城の戦い」で北条氏康が勝利した結果、関東管領の上杉氏のその後を解説!
さて、「河越城の戦い」で北条氏康が勝利した結果、その後の関東の情勢はどうなったのか簡単にご紹介しましょう。
「河越城の戦い」で勝利した結果、北条氏康は関東地方の支配を盤石に
旧勢力の両上杉家を一掃した北条氏康は、在郷の武将を配下におき武蔵国や上野国・下野の一部まで領土を拡大し、関東地方での支配体制を盤石なものとします。
さらに、1554年には隣国で緊張関係にあった駿河の今川義元・甲斐の武田信玄と「甲相駿三国同盟」を結び、さらに関東支配の安定化を図りました。
その後、4代目氏政・5代目氏直の時代も関東での支配領域を広げ、結果的に北条氏による関東支配は1590年の豊臣秀吉による「小田原城攻め」で北条氏が滅びるまで続きました。
敗れた扇谷上杉家は滅亡:関東管領の上杉憲政は越後の上杉謙信のもとへ
さて、この「河越城の戦い」で扇谷上杉家の当主・上杉朝定は討ち死にしてしまい、これをもって長年武蔵国を支配していた扇谷上杉家は滅亡します。
また、山内上杉家の当主で関東管領であった上杉憲政は、なんとか生き延びて越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)のもとに身を寄せました。
これは長尾家が代々山内上杉家に仕えていたことによります。
その後、上杉憲政は形式的に関東管領の地位にありましたが、「打倒・北条家」の思いを果たすため関東管領の座を上杉謙信に譲ると、1560年の8月に越後を出陣し翌年の3月には関東の諸将を従えて北条氏康の拠点である小田原城まで攻め込みました。
この上杉謙信の関東進出については下記の記事でご紹介していますので、気になった方はこちらもぜひ読んでみて下さい。
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まとめ
- 北条氏綱の時代に河越城をはじめ関東の諸城を奪取し、北条氏が関東を支配するようになる。
- 1541年に北条氏綱が亡くなり、北条氏康が当主となった時は駿河の今川義元など周囲は敵だらけの状態にあった。
- 関東も山内・扇谷両上杉家と古河公方が連合し「打倒・北条家」を掲げて北条方の河越城を包囲する。
- 「北条記」などの軍記物では、圧倒的兵力差にもかかわらず、奇襲によって北条氏康がこの「河越城の戦い」に勝利したとされる。
- 実際は岩付城の太田全鑑の裏切りによるところが大きく、「河越城の戦い」の奇襲は創作の可能性が高い。
- 「河越城の戦い」で敗れた扇谷上杉家は滅亡し、山内上杉家で関東管領の上杉憲政は越後の上杉謙信を頼って逃げ延びた。
- 上杉憲政から関東管領の座を引き継いだ上杉謙信は、1561年に北条氏康の小田原城へ攻め込んだ。