引用:Wikipedia
13代将軍の足利義輝が「永禄の変」で暗殺されてしまうと、首謀者である三好三人衆は弟の足利義昭(当時は覚慶)を幽閉してしまいました。
その足利義昭を助け、のちに将軍へと擁立させることに尽力したうちの一人が和田惟政でした。
さて、その和田惟政は一部には忍者であったという噂もありますが、はたして一体どんな人物だったのでしょうか?
この記事では、後の将軍・足利義昭を救った和田惟政についてご紹介しています。
忍者とも噂される和田惟政とはどんな人物か解説!
臣従 | 六角家→足利将軍家→織田家 |
出生地 | 近江国甲賀郡和田村 |
生没年 | 享禄3年(1530年)~元亀2年(1571年) 享年41 |
和田惟政は本当に忍者だったのか?
結論から言うと、和田惟政は忍者ではありません。
しかも、どちらかというと合戦など武人としての活躍よりも、文官・奉行としての功績のほうが大きい人物です。
ではなぜ和田惟政が一部で忍者だと思われているかというと、それは和田惟政が近江国甲賀に生まれ、和田氏がその甲賀の名家だったからでしょう。
甲賀といえば伊賀と並んで「忍の里」というイメージが強く、しかもその甲賀の名家の出身ということで結びついたものと思われます。
または、和田惟政が足利将軍家と織田信長に両属していた時期もあった為、それが諜報活動を行う忍者のようにも写ったのかもしれませんね。
織田信長の重臣の一人に滝川一益という部将がいますが、この滝川一益も同様に甲賀の出身ということで、一部では忍者と思われていたようです。
ただ、滝川一益についてはあまりにも行動範囲が広く、様々な合戦に参戦していた為、忍者だと思われてもおかしくない活躍をしていました。
ちなみに、その滝川一益については下記の記事でもご紹介していますので、興味のある方はこちらも読んでみて下さい。
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将軍・足利義昭と織田信長をつなぐパイプ
和田惟政が足利義昭を伴って将軍就任に尽力したことは後述しますが、将軍となった足利義昭と織田信長を結ぶパイプ役となったのが和田惟政です。
足利義昭の上洛後は、京都や摂津を中心に信長の家臣とともに政務活動も行い、両陣営の間を取り持つような役割を果たしていました。
永禄12年(1569年)に、京都を追われた三好三人衆は再び京都へと戻り、足利義昭を討とうと仮の御所にしていた本圀寺を襲撃します。
その時、和田惟政も他の摂津衆とともに駆けつけ、足利義昭の危機を救っています。
ちなみに、この事件は「本圀寺の変」と呼ばれますが、足利義昭の警護に一番尽力したのが明智光秀で、この時の手柄を織田信長に高く評価され出世の道を切り開いたと言われています。
なお、これを機に足利義昭を守るために、信長は防衛力の高い二条城を作らせますが、この二条城はなんと2ヶ月ほどで完成したそうです。
この二条城を短期間で完成させたのは信長の家臣の村井貞勝という人物で、この人物については下記の記事でご紹介しています。
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将軍・足利義昭誕生に尽力しルイス・フロイスから絶賛された経歴を解説!
さて、足利義昭が将軍となるまでの和田惟政の活躍と、その後の経歴についてご紹介していきましょう。
幽閉されていた足利義昭(覚慶)を助け将軍擁立に尽力する
三好三人衆によって幽閉されていた足利義昭は、兄の足利義輝に仕えていた細川藤孝らによって救い出されます。
そして、その足利義昭の身をかくまったのが和田惟政でした。
その後、足利義昭の将軍擁立に力を貸してくれる大名に声をかけ、一時的に足利義昭と共に越前の朝倉義景のもとに身を寄せることにします。
ただ、朝倉義景は乗り気ではなかった為、当時は岐阜城に拠点を置いていた織田信長に望みを託すことにしました。
織田信長はこうした動きに反応し、足利義昭を将軍に立てることに賛同し、和田惟政は越前にいる足利義昭を岐阜の織田信長のもとへ迎え入れたのでした。
その後、織田信長は足利義昭を伴って京都へと向かうわけですが、和田惟政はそれに先立ち、自身の出身地である近江国甲賀の武士達を味方に引き入れます。
そして旧主の近江の六角氏などを抑え、ついに織田信長軍は足利義昭を伴って京都にたどり着き、晴れて15代将軍に就くことができたのです。
このように、足利義昭の将軍就任には裏で和田惟政の活躍があったからこそ達成できたわけですね。
将軍・足利義昭誕生後は摂津守護として活躍:ルイス・フロイスから絶賛される
足利義昭が将軍に就任すると、その活躍が認められた和田惟政は摂津国三守護の一人に任命されます。
当初は芥川城に入り、続いて高槻城へと移りそこで様々な政務を執り行いました。
その時の和田惟政の活躍について、宣教師のルイス・フロイスは「都及び摂津国領国の総督」、あるいは「都の副王」と称して絶賛しています。
キリスト教宣教師ルイス・フロイスと織田信長を引き合わせたのは和田惟政
さて、和田惟政を絶賛し、戦国時代の史料にもたびたびその名が登場する宣教師のルイス・フロイスは、織田信長と会見しキリスト教の布教を許されただけでなく、様々な便宜を与えられました。
そのルイス・フロイスと信長を引き合わせたのが和田惟政だと言われています。
和田惟政は親友であった高山右近に誘われキリスト教の宣教師の教えを聞くと、それに感銘を受けてキリスト教に好意を抱くようになったと言います。
そして、ルイス・フロイスが京都を追われて困っていると、足利義昭と織田信長に京都復帰を申し入れて許しを得て助けました。
こうした経緯もあり、ルイス・フロイスにとって和田惟政はキリスト教の良き理解者でもあった為、最大級の賛辞を送っていたわけです。
織田信長の怒りを買い蟄居を命じられる?
永禄12年(1569年)10月から約半年の間、突如として和田惟政の名前は史料から見られなくなります。
これは、この頃から足利義昭と織田信長の折り合いが悪くなったことが原因のようです。
将軍・足利義昭と織田信長の間を取り持っていた和田惟政ですが、どちらかと言えば足利義昭寄りについていたことにより、信長から疎んじられてしまったものと考えられています。
「こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てればこちらが立たず」きっと和田惟政は二人の間で苦悶の日々を送っていたことでしょう。
なおこのことに関して、ルイス・フロイスは朝山日乗という仏僧が織田信長に向かって和田惟政を落とし入れる証言をしたからだとしています。
しかい、これはキリスト教を敵視していた朝山日乗に対する反抗の表れで、ルイス・フロイスはキリスト教布教に都合のいい場合は絶賛し、そうでない場合はひどい扱いで記録しています。
こうした立場によって良くも悪くも誇張した記載が多い為、ルイス・フロイスの記録にはいささか疑問視される傾向にあります。
和田惟政の最期は摂津で中川清秀に討ち取られる
元亀2年(1571年)になると、和田惟政が守護を務める摂津は混乱の様相を呈します。
少し前まで敵対関係にあった松永久秀と三好三人衆が手を組むと、細川藤孝や和田惟政と対立するようになります。
また、摂津の池田氏を荒木村重が乗っ取ると、その荒木村重は松永久秀方につき、和田惟政は摂津内で多くの敵に囲まれることになってしまいました。
そして、摂津で勢力拡大を目論む荒木村重と和田惟政らが対立し「白井河原の戦い」が起こります。
この戦いにおいて、和田惟政は荒木村重の家臣であった中川清秀に討ち取られてしまいました。
あまり大きく取り上げられることはありませんが、足利義昭を将軍にする為に奔走し、その後も織田信長との関係を取り持つなど影で大きな活躍をしていた人物ですね。
なお、和田惟政を討ち取った中川清秀については下記の記事でご紹介していますので、気になった方はこちらも併せて御覧ください。
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まとめ
- 和田惟政は近江国甲賀の出身だが忍者ではなかった。
- 足利義昭の将軍擁立に尽力し、その後摂津三守護のひとりとなる。
- 宣教師ルイス・フロイスから「都の副王」などと絶賛される。
- 足利義昭と織田信長の関係悪化により、パイプ役の和田惟政は織田信長から疎んじられてしまう。
- 最期は摂津国内での争いにより、荒木村重の家臣・中川清秀に討たれてしまった。