滝川一益は織田信長の家臣として、明智光秀・羽柴秀吉(豊臣秀吉)・柴田勝家・丹羽長秀といった面々と同列に扱われる重臣です。
その活躍ぶりは目覚ましく、「進むも滝川、退くも滝川」と称賛を込めた異名がつけられるほどでした。
この記事では、そんな八面六臂の活躍で織田信長を支えた滝川一益にまつわる逸話やエピソードをご紹介します。
忍者の生まれとも言われる滝川一益とはどんな人物?異名の由来から解説!
臣従 | 織田家(信長 / 信忠) |
出生地 | 近江国甲賀郡 |
生没年 | 大永5年(1525年)~天正14年(1586年) |
主な戦歴 | 永禄10年~12年(1567年~69年)伊勢攻略(vs北畠家) |
元亀元年~天正2年(1570年~74年)長島一向一揆 | |
天正3年(1575年)長篠の戦い(vs武田家) | |
〃 越前一向一揆 | |
天正4年(1576年)天王寺の戦い(vs石山本願寺) | |
天正5年(1577年)紀州攻略(vs雑賀衆) | |
天正6年~7年(1578年~79年)有岡城の戦い(vs荒木村重) | |
天正9年(1581年)伊賀攻略 | |
天正10年(1582年)甲州征伐(vs武田家) |
滝川一益は忍者の生まれだった?
滝川一益は近江国甲賀郡の生まれとされています。
そのことは『勢州軍記』など複数の史料にも明記されている為、間違いないでしょう。
この出生地の甲賀と言えば、伊賀と並んで忍者の里としても有名な為、滝川一益も忍者の家系だったと噂されることもあります。
しかし、滝川一益が忍者の家系だったという確たる史料は存在せず、これはあくまでも噂に過ぎません。
ただ、上記の戦歴を見ると、その神出鬼没の活躍ぶりから当時の人々が「もしかしたら忍者なのか?」と思っても不思議ではないでしょうね。
出生地とその活躍ぶりが相まってできた都市伝説のようなものでしょうか。
織田信長に仕える前から鉄砲の腕前は抜群だった
『寛永諸家系図伝』や『重修譜』といった書物によると、滝川一益は幼年の頃から鉄砲の鍛錬を重ね、様々な所へ遊歴してその腕前は有名だったと記されています。
しかし、河内国で一族の高安某を殺してしまった為、追放されて諸国を放浪していたそうです。
そこで、織田信長にその鉄砲の腕前を見込まれて仕えるようになったとも言われています。
滝川一益がいつ頃から織田信長に仕え始めたのかは定かではありませんが、『信長公記』の盆踊りの記事の中にその名前が見られることから、少なくとも天文年間(~1555年)にはすでに仕えていたと考えられます。
滝川一益の異名の由来について
滝川一益はその功績から「進むも滝川、退くも滝川」という異名がつきました。
織田信長に仕えて以降、滝川一益は伊勢を攻略後、越前や京都・畿内、そして上野など全国各地を転戦しています。
こうした戦歴をみると、信長が攻略したいと考えている所には必ずと言っていいほど滝川一益を派遣しており、「進むも滝川」の異名がついたことはうなづけますよね。
また、軍を退いて退却する際は、その最後尾で戦う殿が重要でかつ一番難しいとされますが、滝川一益はその殿を務めるのもうまかったそうです。
こうしたことから「進むも滝川、退ひくも滝川」と呼ばれるようになったわけですね。
織田信長からの手紙の逸話や茶器にまつわるエピソードを紹介
織田信長に古くから仕えていた滝川一益は、信長からの信頼も厚く様々な逸話やエピソードがあります。
ここでは、信長から送られた手紙の逸話や茶器にまつわるエピソードをご紹介します。
武田攻めの際に織田信長から送られた手紙の逸話を紹介
天正10年(1582年)2月になると、織田信長はいよいよ武田家を追い詰めるため軍を発します。
この時の総大将は嫡男の信忠で、滝川一益はその信忠の下で副主将格として参戦します。
『建勲神社文書』によると、その際信長は滝川一益に対し2月15日付の手紙の中で、大将の信忠が若さから血気にはやりがちな為、それをうまく制御してほしいと伝えています。
これまで数々の戦をくぐり抜け、歴戦のつわ者であった滝川一益を頼りにしていたことの現れですね。
なお、この武田攻めでは同じく古くから信長に仕えていた河尻秀隆という人物も参戦しており、やはり同様の手紙を送っています。
嫡男の信忠が大将を務める武田攻めを、このベテランの滝川一益と河尻秀隆に任せていたことがわかりますね。
ちなみに、手紙を送られたもう一人の河尻秀隆については下記の記事でもご紹介していますので、こちらも併せて読んでみて下さい。
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織田信長との名物の茶器(珠光小茄子)にまつわるエピソードを紹介
ご紹介したように、信忠軍の副主将格として武田攻めに参戦した滝川一益は、予定よりもはるかにスムーズに進軍し、ついに武田勝頼を甲斐田野に追い詰め自害に追いやりました。
こうして武田家は滅亡し、信長の支配する領地は甲斐・信濃まで広がったわけです。
織田信長はこの10年ほど前から武田信玄と対立し、一時は劣勢に立たされることもあった宿敵でした。
その武田家を滅亡に追いやった滝川一益は、最大級の功労者だと言っても過言ではありません。
そこで、滝川一益はこの武田攻めの論功行賞において、その褒美として信長の所有する茶器(茶入)「珠光小茄子」を拝領することを願い出ます。
しかし、その思いは叶わず、代わりに武田家の領地であった上野国と信濃の一部の領地を与えられました。
このことは滝川一益を大いに失望させ、宇治にいたと思われる三国一太郎五郎という茶人に宛てた手紙の中で、その無念さを綴っています。
ちなみに、このエピソードについてはアニメ「へうげもの」の第7話でも描かれていて、この信長の処置が少なからず「本能寺の変」に影響していると表現されています。
なお、アニメ「へうげもの」は無料で見ることもできますので、興味を持たれた方は下記の記事を参考に視聴してみて下さい。
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まとめ
- 滝川一益は近江国甲賀の生まれで、その出生地や凄まじいほどの活躍から忍者だったとも言われる。
ただし、これを立証する史料は存在しない。 - 滝川一益は幼少期から鉄砲の腕前は抜群で、それを買われて織田信長に仕えるようになったとも言われている。
- その戦働きから「進むも滝川、退くも滝川」という異名がつけられ称賛された。
- 武田攻めの際、織田信長から嫡男・信忠の補佐を任される手紙を送られる。
- 武田攻めの報奨に茶器を望むも叶わず、無念な思いを手紙に記していた。
さて、茶器にまつわるエピソードの中で、アニメ「へうげもの」ではこの処置が「本能寺の変」にも通じているとお伝えしました。
それはどういう事かというと、長年織田信長に仕えていた家臣が、その働きに報われない処置をとらされていたことを明智光秀が不満に思い、それが積もり積もって「本能寺の変」を引き起こしたとしているからです。
滝川一益のように、長年織田信長に仕えながらも不遇な処置を取らされた家臣は他にもおり、その代表格が佐久間信盛と林秀貞という人物です。
この二人の家臣については下記の記事でご紹介していますので、こちらもぜひ読んでみて下さい。
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また、織田信長に仕えた家臣は武将の活躍が目立ちますが、実は武将以外の官僚(吏僚)も優秀な人材が豊富でした。
そうしたあまり知られていない織田信長の官僚についても一覧でご紹介していますので、興味のある方はこちらも参考にしてみて下さい。
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