「桶狭間の戦い」により、織田信長によって今川義元が討ち取られると、嫡男の今川氏真が当主となります。
ところが、今川氏真は蹴鞠や和歌に興じてばかりで国の統治はままなりません。
その後、今川家はどうなってしまったのか?今川氏真の蹴鞠の逸話を交えながら解説しています。
目次
今川義元の子供の今川氏真とはどんな人物か解説!正室・早川殿との関係についても
駿河の今川義元の嫡男として誕生し、相模の北条氏の早川殿と結婚
今川氏真は、天文7年(1538年)に駿河の守護・今川義元と定恵院(武田信玄の姉)との間に長男として誕生します。
駿河を治める今川義元は、隣接する甲斐の武田信玄と相模の北条氏康との間に「甲相駿三国同盟」を結びます。
この「甲相駿三国同盟」の成立とともに、北条氏康の娘の早川殿と今川氏真の正室として迎え、同盟関係を強固にする狙いがありました。
なお、今川義元の娘の嶺松院と武田信玄の嫡男の義信は結婚し、武田信玄の娘の黄梅院と北条氏康の嫡男の氏政が結婚しています。
甲相駿三国同盟の婚姻関係
今川氏真(今川)と早川殿(北条)
武田義信(武田)と嶺松院(今川)
北条氏政(北条)と黄梅院(武田)
蹴鞠や和歌に興じ、「桶狭間の戦い」の後に今川家の滅亡を招いた
今川氏真の祖母である寿桂尼は藤原北家の公家出身であることや、父の今川義元は荒廃した京の都から公家を保護していたことから、もともと公家文化は身近な存在でした。
こうした環境で育った今川氏真は、幼い頃から公家文化の象徴である蹴鞠や和歌に興じていました。
特に蹴鞠には熱心で、一説には、平安時代の末期から蹴鞠の名家とされた飛鳥井家も凌ぐほどの施設や道具を揃え、技術も当代一であったとも言われています。
なお、晩年には1700首の和歌を詠むなど、芸能の分野では類を見ない才能を発揮していました。
しかしながら武芸や当主として政治を行う器量は無く、「桶狭間の戦い」のあと今川家から独立した徳川家康に三河を奪われると、遠江にも侵攻されてしまいます。
さらには武田家とも同盟関係が解消され、本拠地の駿河を責め立てられる事態を招き、家臣の朝比奈泰朝の居城である掛川城へと逃げ落ちます。
ところが、この掛川城も侵攻してきた徳川家康によって包囲され、やむなく明け渡すことになってしまいました。
この掛川城は今川家が治める最後の城であり、これを失ったことで戦国武将としての今川家は滅亡したことになります。
なお、「桶狭間の戦い」のあとの今川氏真と徳川家康の関係については下記の記事でご紹介していますので、こちらも併せて読んでみて下さい。
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度重なる移住生活の危機を支えた早川殿の逸話を紹介
掛川城を追われた今川氏真は、妻の早川殿の父である北条氏康を頼って小田原に移住します。
北条家の庇護のもと安泰かと思われた今川氏真と早川殿夫妻ですが、なんと頼みの綱である北条氏康が亡くなり、当主には早川殿の兄妹の氏政が就くことになりました。
新たに当主となった北条氏政は外交政策を見直し、武田家との関係を修復することにしたのです。
そうなると駿河を奪った武田信玄は、目障りな元・領主である今川氏真を亡き者にしようと、北条氏政に殺害を命じ刺客を送らせました。
これに激怒した早川殿は、夫を守るため旧知の人間を集めて急ぎ船を仕立て、氏真を連れて小田原を脱出したのです。
この脱出は、早川殿が実家である北条家を捨てたことを意味しますから、いかに今川氏真との仲が良かったかがうかがえますね。
今川義元を殺害した織田信長の前で蹴鞠を披露した逸話を紹介!
今川氏真は普通の戦国武将とは違う感性を持っていた?
今川氏真は小田原を脱出したあと、なんと今度は浜松に拠点を移していた徳川家康のもとに身を寄せることにします。
徳川家康といえば、もともとは今川家の家臣でありながら、掛川城を奪って今川家を滅亡に導いた人物です。
そんな相手のもとに世話になるのは、プライドの高い武将であればまず考えられませんよね。
でも今川氏真は自ら進んで徳川家康に頼ったそうで、いかに今川氏真が普通の武将とは違う感性を持っていたかがわかります。
親の仇の織田信長の前で蹴鞠を披露する今川氏真
ある日京都に上洛した今川氏真は、同じく京都にいた織田信長と会見をすることになりました。
話題が蹴鞠のことになると、今川氏真の腕前を見てみたいと織田信長が興味を示した為、その数日後に相国寺で蹴鞠を披露することになったのです。
この時、蹴鞠の名家である飛鳥井雅教・雅敦の親子も招かれ、大勢の観客のもと盛大に執り行われました。
織田信長は、父・今川義元を「桶狭間の戦い」で打ち破り、それが為に今川家は滅亡の道を歩むことになったわけで、戦国武将でなくても会いたくない人物だったわけです。
しかも蹴鞠を披露するというのは、穿った見方をすれば「見世物」としての意味合いもあり屈辱を味わうことでもあります。
しかし今川氏真はそれを嬉々として受け入れたといいますから、やはり普通の人とは違った感性を持っていたのでしょうね。
今川氏真は単なる愚将だったのか?辞世の句に現れた人物像を解説!
さて、その後も徳川家康のもとで生活をしていた今川氏真は、いったん徳川家康から諏訪原城という城の城主に任命されますが、約1年半過ごした後に自ら城主の座を降りています。
「わが任にあらず」というのがその理由で、あらためて自分は戦国武将の器ではないと悟ったのでしょう。
その後、徳川家康によって江戸幕府が開かれると、今川氏真は品川に館をもらい和歌を詠んで晩年を過ごします。
今川氏真が生涯に詠んだ1700首にも及ぶ和歌の大半はこの頃に詠まれたもので、辞世の句として下記の2首を残し、慶長19年(1615年)に77歳で生涯を閉じました。
なかなかに 世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを 身の科にして
(もはや世間も人も恨むまい。時代に合わなかったのは自分の罪なのだから)
悔しとも うら山し共思はねど 我が世にかはる 世の姿かな
(悔しいとも羨ましいとも思わないが 世の中は変わってゆくものだな)
あまりにも大きな存在であった父・今川義元と比較されてしまった今川氏真。
それにより、「今川家を滅亡させた愚将」というレッテルが貼られるとおり、たしかに戦国武将としては大成できませんでした。
しかし、激しい戦いに身を置きいつ死んでもおかしくない世の中で、当時としてはとても長生きして天寿を全うしています。
「生き抜く」ということを勝利とするならば、恥や外聞も捨てて何が何でも生き延びた今川氏真は、討ち死にしてしまった父・義元や織田信長にも勝ったと言えるのではないでしょうか。
また、たしかに戦国武将としての器量は持ち合わせていませんでしたが、一方で蹴鞠や和歌は当代一と言われる程の才能を発揮しました。
もし生まれた時代が違えば、その才能を遺憾なく発揮して、まったく違う人物像として人々の記憶に残ったかもしれませんね。
ちなみに、今川氏真にスポットを当てた短編小説「国を蹴った男」著:伊藤潤(講談社文庫)は、蹴鞠や和歌の才能がありながらも、時代や生まれた環境によって苦い人生を歩んだ今川氏真の物語を知ることが出来ます。
この短編集は、他にも戦国時代の脇役として描かれることの多い人物に焦点を当てた物語が多く、王道をいく戦国時代小説とは一味違った味わいがあります。
短編集なので時間の合間にすぐに読めますしオススメです。よかったらコチラも読んでみて下さい。
さて、このブログでは大河ドラマ「麒麟がくる」の時代背景を取り上げた記事を掲載しています。
はたして今川氏真は登場するかどうかはわかりませんが、もし登場するならばどのような人物像で描かれるでしょうね?
他にも登場人物の関係性など、ドラマでは描ききれなかった裏側についても書いていますので、さらに深く楽しみたいと思った人はこちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。
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