織田信長の父・信秀の頃から織田家の重臣として仕えた林秀貞は、信長の家臣団の中でも古参の人物です。
ところが、長年重臣として信長に仕えていたにも関わらず、突然追放を言い渡されてしまいました。
はたしてなぜ林秀貞は追放されてしまったのか?
その不可解な理由をご紹介しつつ、その真相について解説しています。
目次
織田信長の家臣として仕えた林秀貞とはどんな人物か解説!
臣従 | 織田家(信秀 / 信行 / 信長) |
出生地 | 尾張国春日井郡沖村 |
生没年 | 永正10年(1513年)~天正8年(1580年) |
主な戦歴 | 稲生の戦い(1556年) |
林秀貞は永正10年(1513年)に尾張国に生まれ、「尾張の虎」と呼ばれた織田信秀に仕えました。
織田家の重臣として、幼少の信長に那古野城が与えられた際、一番家老として後見役を担うことになりました。
林秀貞は戦働きをする武将というよりは、他家との外交交渉や家内の政治的な役割を担う文官として活躍していたようです。
その為、合戦に参加した様子はほとんどなく、後述する「稲生の戦い」も実際に参戦したかどうかは定かではありません。
織田信長に反旗を翻し「稲生の戦い」で弟の信行(信勝)に味方する
1556年 信長の弟・信行(信勝)を擁立し信長に反旗を翻す
織田信長は幼少の頃から「うつけ者」と呼ばれ、織田家中でもその素行の悪さに頭を悩ませる家臣も多くいました。
一番家老であった林秀貞もそのうちの一人で、父である信秀の亡き後は品行方正な弟の信行(信勝)に家督を継がせようと考え始めます。
そして林秀貞は弟の通具や柴田勝家らとともに、弟の信行(信勝)を擁立して信長に反旗を翻し挙兵します。この戦いは「稲生の戦い」と呼ばれ1556年に起こりました。
この「稲生の戦い」は兵力で勝る信行(信勝)が優勢と見られていましたが、結果的には信長の勝利に終わりました。
さきほどもお伝えしましたが、林秀貞は信長と対立して「稲生の戦い」を画策しましたが、実際の戦場には参戦していなかったようです。
信長に許された林秀貞は、筆頭家老として信長に仕える
もともと信長の後見役であったにも関わらず反旗を翻した林秀貞は、本来なら「稲生の戦い」で敗れた後は厳しい処罰を与えられても不思議ではありません。
しかし、信長の実の母の土田御前のとりなしもあり、信行(信勝)をはじめ弟の林通具や柴田勝家ともども信長の許しを得ることができました。
その後は織田家の筆頭家老として、主に外交面で行政官として信長を支えることに専念したようです。
こうした文官としての林秀貞の働きは織田信長も評価していたようで、信長が開催する茶会には必ずと言っていいほど招かれたそうです。
また、1579年に安土城の天守が完成した際は林秀貞・村井貞勝の二名だけが見物を許されるなど、信長との関係はいたって良好だったようです。
ちなみに、林秀貞らが弟の信行(信勝)を担ぎ上げて信長と戦った「稲生の戦い」については、下記の記事で詳しくご紹介していますので、こちらも併せて読んでみて下さい。
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織田信長と弟の織田信勝(信行)の稲生の戦いはなぜ起きたのか理由や経緯を解説!
「尾張の虎」と呼ばれた織田信秀が亡くなると、家督は織田信長が継ぐことになります。 しかし、当時「うつけ者」と呼ばれた織田信長には敵が多く、実の弟である織田信勝(信行)もその一人として信長に立ちはだかり ...
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林秀貞はなぜ追放されたのか?理由は過去に信長に反旗を翻したことが原因?
1580年8月、林秀貞は突如として織田信長から追放を言い渡されてしまいます。
なぜ筆頭家老であった林秀貞が追放されてしまったのか、その理由について解説していきます。
林秀貞が追放された理由は、24年前に「稲生の戦い」で反旗を翻したから
筆頭家老であった林秀貞が織田家から追放されてしまった理由は、1556年に信長の弟の信行(信勝)を擁立して反旗を翻して「稲生の戦い」を引き起こしたからとなっています。
また「信長公記」によれば、将軍・足利義昭らが結託して織田家を倒そうとした「信長包囲網」に林秀貞が内通していたこともその理由に挙げています。
しかし、林秀貞が「信長包囲網」に内通していた事実はなく、ほとんど言いがかりに近いものでした。
確かに「稲生の戦い」で織田信長を裏切ったことは確かですが、再び織田信長を裏切ったわけでもなく、ましてや24年も前の一度は赦免した事柄を持ち出して追放理由とするのはかなり不可解です。
もしかしたら林秀貞の追放は他の理由があったのかもしれません。
林秀貞が追放された理由は明智光秀が原因?
林秀貞は武将としてではなく、外交や行政官としての立場で古くから織田信長に仕えていました。
しかし、のちに明智光秀が織田信長の家臣となると、その手腕を買われてまたたく間に出世してゆきます。
明智光秀は戦働きだけでなく、定期的に茶会や連歌会を開くなど公家や茶人などの文化人との交流も広く、外交手腕も高かったと言われています。
こうした文官としての能力も持ち合わせた明智光秀の台頭により、織田信長にとって林秀貞はお荷物だと感じてしまったのかもしれません。
目立った功績を挙げないものは容赦なく切り捨てていく。家臣に対してそうしたメッセージを投げかける意味でも、無理やり理由をこじつけて林秀貞を追放したのかもしれませんね。
まとめ
- 林秀貞は幼少の織田信長の後見役を任されていた。
- 林秀貞は信長を見限り、弟の信行(信勝)を擁立して反旗を翻し「稲生の戦い」を引き起こした。
- 「稲生の戦い」で敗れると、信長に許され筆頭家老として仕え、外交や行政面で信長を支えた。
- 1580年に突然信長から追放を言い渡されてしまう。
- その理由は、24年前に「稲生の戦い」で謀反を起こしたからとされるが、不可解な点が多い。
なお、林秀貞と同様に織田信長に長年仕えていたものの、突然追放を言い渡された人物がいます。
その人物は佐久間信盛という武将で、このことについては下記の記事で取り上げていますので、こちらも参考に読んでみて下さい。
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引用:Wikipedia 佐久間信盛は織田信長の父・信秀の時代から織田家に仕え、信長の家臣団の中では古参の武将でした。 しかし、長年仕えてきたにも関わらず、突然織田家からの追放を言い渡されてしまいます ...
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