「へうげもの」での荒木村重
織田信長に謀反を起こした家臣として、明智光秀や松永久秀と並んでよく知られているのが荒木村重ですね。
他にも信長を裏切った家臣はいますが、いずれも処刑されたり自害に追い込まれるなど悲惨な運命をたどっています。
ところが、この荒木村重は謀反を起こしたにも関わらず、妻や家族を見捨てて自分だけ逃げ出して処刑をまぬがれた為、「武将のクズ」のようなレッテルをはられがちです。
しかし、はたして本当に荒木村重は「武将のクズ」だったのでしょうか?
この記事では、その点をあらためて検証していこうと思います。
目次
荒木村重とは何者なのか?経歴や織田信長とのまんじゅうのエピソードから解説!
荒木村重が謀反を起こしたことは比較的よく知られていますが、荒木村重のそれまでの経歴はあまり知らない人も多いのではないでしょうか。
まずは、そもそも荒木村重とはいったい何者だったのか?ということをご紹介しましょう。
臣従 | 池田氏→織田信長→豊臣秀吉 |
出生地 | 摂津国 |
生没年 | 天文4年(1535年)~天正14年(1586年) |
主な戦歴 | 永禄12年(1569年)本圀寺の変 |
元亀2年(1571年)白井河原の戦い | |
天正4年(1576年)石山本願寺攻め | |
天正5年(1577年)紀州雑賀攻め | |
天正6年(1578年)中国毛利攻め | |
天正6年(1578年)有岡城の戦い |
摂津の土豪として生まれ、池田勝正に仕える
荒木村重は摂津(大阪府)の土豪の家に生まれ、当時その地の有力者であった池田勝正に仕えました。
永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛をはたすと、摂津は和田惟政・伊丹忠親・池田勝正の三氏が守護に就任します。
翌年、三好三人衆が足利義昭を襲撃する「本圀寺の変」が起こった際、荒木村重は池田勝正に従って足利義昭救出の為に出陣しています。
この頃はまだ池田勝正に忠実に従っていたようですが、やがて池田家内で内紛が起こり勝正が出奔して弟の知正が当主の座につくと、荒木村重は徐々に池田家を牛耳るようになります。
摂津で高山右近や中川清秀らを従え勢力を拡大
池田家を実質的に支配していた荒木村重は、同じく池田家の家臣であった中川清秀を従えるなど、その勢力を拡大してゆきます。
そして、元亀2年(1571年)には池田家と並んで摂津の守護であった和田惟政を「白井河原の戦い」で討ち取ると、その跡を継いだ和田惟長と高山右近を争わせ、和田氏を摂津から追い出しました。
その高山右近は和田氏の居城であった高槻城を乗っ取り、荒木村重の家臣となったのです。
こうして、荒木村重は摂津国内の有力者であった中川清秀や高山右近を引き入れ、摂津一国をほぼ手中に治めるほどになったのです。
ちなみに、荒木村重に仕えた中川清秀や高山右近については、下記の記事でご紹介していますので、こちらも参考にしてみて下さい。
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上洛した織田信長に仕える:刀に刺したまんじゅうのエピソードを紹介
引用:Wikipedia
元亀4年(1573年)3月29日、織田信長が軍勢を率いて京都に向かった際、荒木村重は細川藤孝とともに迎いにあがり、この時に忠節を誓いました。
この時期、織田信長は足利義昭と対立し、いわゆる「信長包囲網」で周りは敵だらけという状況だった為、摂津の実質的な支配者である荒木村重が味方につくことは大きな喜びでした。
そこで信長は名刀工・郷義弘の銘の刀を荒木村重に授けたそうです。
この荒木村重が織田信長と対面した時のエピソードが、江戸時代に発刊された『陰徳太平記』という書物に記されています。
それによれば、この時、織田信長は刀を抜いて盆にあったまんじゅうをいくつか突き刺し、これを荒木村重の口元に突きつけたそうです。
このまんじゅうを食べようとすれば、もしかしたらそのまま刀を喉元に刺されるかもしれない。
しかし、意に背いて食べなければ殺されるかもしれない。
そういう恐ろしい選択を迫られる状況で、荒木村重は事も無げに大きく口を開けてまんじゅうを食べたそうです。
これを見た織田信長は、荒木村重のことを「日本一の器」と評したといいます。
このまんじゅうの逸話は、荒木村重にまつわる代表的なエピソードですが、これが書かれた書物が江戸時代の書物であることからも創作だと考えられます。
また、状況的に信長も荒木村重が味方になってほしかったはずですし、そんな挑発的な態度はとらないと思えます。
とはいえ、二人の人物を象徴するものとして面白いエピソードですよね。
荒木村重はなぜ謀反を起こしたのか?その理由を解説!
さて、織田信長に忠節を誓ったはずの荒木村重ですが、天正6年の10月頃に突如として謀反の噂が流れます。
なぜ荒木村重は織田信長に反旗を翻したのか?その理由については定かではありませんが、いくつかある説をご紹介していきます。
謀反の理由1:まんじゅうの件で恨みを持っていたから
さきほどご紹介したように、荒木村重が織田信長に謁見した際に、まんじゅうを刺した刀を突きつけられたという逸話があり、その時の屈辱から謀反に及んだというものです。
いわゆる怨恨説というもので、「本能寺の変」も明智光秀が頭髪のことで馬鹿にされたことを恨んで決行した、という説に近いものですね。
これについては、そもそも「まんじゅうの逸話」自体が創作の可能性が高いので、これが理由とは考えにくいですね。
また、同様の怨恨説として、信長の側近の長谷川秀一に小便をかけられるなど、その傲慢な態度に耐えかねたからというものもあります。
謀反の理由2:明智光秀が謀反をあおったから
次に、明智光秀が自分の謀反計画の中で、邪魔になる荒木村重を背かせて葬り去ろうとしたという説があります。
これは前述のまんじゅうのエピソードが記された『陰徳太平記』などに書かれています。
ただ、明智光秀は秀吉や堺奉行の松井友閑らと説得に派遣されており、説得が失敗に終わることは自分にとってもデメリットしかありません。
また、明智光秀の娘は荒木村重の息子に嫁いでいますから、娘の身を考えれば荒木村重を謀反させるというのは考えにくいですよね。
謀反の理由3:家臣が石山本願寺に米を送っていたことがバレてしまったから
当時、織田信長は石山本願寺と敵対しており、長年にわたり攻略できずにいました。
その石山本願寺に対し、荒木村重の家臣(一説には中川清秀とも)が兵糧の米を密かに送っていたそうです。
この兵糧の横流しがバレたら織田信長が烈火のごとく怒るのは目に見えており、そうなる前に謀反を起こして毛利家に鞍替えしようとした、というのが謀反の理由とされています。
一般的にはこの説が広く知られていますが、それならば兵糧を送っていた家臣と思われる中川清秀を厳罰に処し、自らの正当性を主張するはずです。
ところが、中川清秀は降伏して信長に降っており、信長から厳しい処分を受けた形跡はみられません。
つまり、「兵糧を横流ししたことがバレるのを恐れて謀反を起こした」のではななく、「謀反を起こすと決めていたから兵糧を横流ししていた(指示していた)」ということであり、原因と結果が逆ではないかと思えます。
謀反の理由4:待遇に不満があり将来に失望してしまったから
荒木村重は摂津の池田家を下剋上で乗っ取り、摂津国内を支配するまでになっていました。
織田信長に臣従した当初は、東大寺の香木・蘭奢待の切り取りに同席させたり、石山本願寺攻めの一翼を担わせるなど、信長からの信頼は絶大でした。
しかし、その石山本願寺攻めの総大将は佐久間信盛が任命され、荒木村重は羽柴秀吉のもと中国攻めに加えられるなど、その地位は以前より格下げされます。
こうした待遇の変化に不満がつのり、それならばいっそ毛利家についた方が活路が見いだせると踏み、謀反に及んだと考えられます。
荒木村重が支配していた摂津は、中国攻めをしていた羽柴秀吉や播磨・丹波攻めをしていた明智光秀にとって重要な中継地で、自分が謀反を起こせば織田信長に大きな打撃を与えられるという勝算があったことも一因でしょう。
いわば、自分のさらなる野心の為に謀反を起こしたというわけですね。
荒木村重の謀反の理由として、織田信長の研究の第一人者である谷口克広氏はこの説をとっており、野心家である荒木村重という人物像からすると、確かにこの説が一番説得力あるように思えます。
荒木村重は本当に妻のだしや家臣を見捨てて逃げたクズだったのか?
さて、謀反を起こした荒木村重は、家臣であった中川清秀や高山右近が織田信長に降伏したことにより一気に窮地に追い込まれます。
さらに、頼みにしていた毛利家からの援軍はなかなかやって来ず、ついに荒木村重は籠城していた有岡城から抜け出ます。
荒木村重が有岡城を抜け出したのは逃げたわけではなかった?
絶体絶命のピンチに陥った荒木村重は、わずかな伴を連れて有岡城から抜け出し尼崎城へと向かいました。
そして、妻のだしや家臣らを捨て、自分だけ助かるために毛利家へと逃げ延びたとされています。
この行為に焦点が当てられ、荒木村重は自分勝手なクズのように捉えられがちです。
しかし、荒木村重は有岡城を脱出し尼崎城へたどり着くと、すぐに西の毛利家へと向かった形跡はなく、その後半年あまり尼崎城で籠城していたのです。
荒木村重が有岡城から脱出したのは逃げる為ではなく、尼崎城に詰めていた毛利軍に援軍を要請する為だったのです。
つまり、この時点ではまだ織田信長と戦い続けるつもりだったと考えられます。
結果的に妻のだしや家臣を見殺しにした荒木村重はクズだった
とはいえ、有岡城に残された者達からすれば、織田信長の軍勢も勢いを増し、いつ終わるともわからない戦いに巻き込まれてしまったわけですから、戦意が続くはずがありません。
城内の足軽大将達が謀反を起こすと、一気に有岡城は丸裸にされ、ついに開城を余儀なくされます。
そして、そこに残っていた一族の荒木久左衛門は、荒木村重の降伏と尼崎城・花隈城の開城を条件に、城内の者の助命を願い出ます。
織田信長もこの条件を飲んだ為、さっそく荒木久左衛門は尼崎城に向かい、荒木村重に降伏するよう説得します。
ところが、なんと荒木村重はこれを拒否し、あくまで徹底抗戦することを選びます。
これにより交渉は決裂し、有岡城に残された妻のだしや一族郎党は皆殺しにされ、世にも恐ろしい悲劇が起きてしまったのです。
しかも、荒木村重はその報を聞いても抵抗し続けたといいますから、もはやクズの域を越えていると言っても過言ではないでしょう。
その後荒木村重は尾道で「道糞」と名乗って生活する
天正8年3月、徹底抗戦を続けていた荒木村重ですが、織田信長軍の攻撃に耐えかね、ついに毛利家をたよって尼崎城をあとにします。
その後は毛利家の庇護のもと、荒木村重は一人で逃げ延びたことを恥じ「道糞」と名乗り尾道で暮らしていたそうです。
そして、「本能寺の変」で織田信長が亡くなると、再び畿内にもどり茶人として千利休らとも交流を持ったとも言われています。
なお、謀反の前から豊臣秀吉とは親交があったようで、のちに秀吉の命で「道薫」と名乗るようになったと言われています。
以後は戦に出陣することはなく、茶人として余生を送り天正14(1586)年に52歳で生涯を終えています。
茶器にも執念を燃やした荒木村重や、息子・岩佐又兵衛のことがわかる漫画「へうげもの」
さて、謀反を起こして織田信長を裏切った荒木村重は、その行いから様々なエピソードもありインパクトのある人物ですね。
また、茶人として余生を送っていることからも、「茶の湯」にも興じ名物と呼ばれる茶器の収集にも執念を燃やしていたようです。
茶人として名を馳せた古田織部が主人公の漫画「へうげもの」には、ご紹介した荒木村重も登場しています。
この「へうげもの」の作中において、荒木村重の茶器へのこだわりや、謀反を起こしても生き延びた生涯の人生観などが描かれています。
さらに、有岡城から密かに逃げ延びたと言われる、荒木村重の息子で絵師の岩佐又兵衛についても描かれており、荒木村重という人物を知る上でとても面白い作品です。
2011年にはアニメ化もされており、このアニメは無料で見ることもできますので、気になった方は下記の記事を参考にぜひ視聴してみて下さい。
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まとめ
- 荒木村重は中川清秀や高山右近を従え、池田家を乗っ取り摂津を支配する。
- まんじゅうのエピソードなど、織田信長に忠節を誓うものの謀反を起こして有岡城に籠城した。
- なぜ謀反を起こしたのか理由は定かではないが、待遇の不満だと考えられる。
- 荒木村重は逃げたわけではなく、徹底抗戦の為に有岡城から抜け出した。
- 結果的に一族郎党を見殺しにしてしまい、クズと呼ばれてもやむを得ない。
- その後は尾道で「道糞」と名乗り、晩年は茶人として余生を過ごす。
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