「尾張の虎」と呼ばれた織田信秀の亡き後、跡を継いだ織田信長は様々な試練が待っていました。
その最初の試練とも言えるのが、今川義元軍と争った「村木砦の戦い」です。
その最初の試練「村木砦の戦い」とはどんな戦いだったのか解説しています。
目次
織田信長と今川義元軍との「村木砦の戦い」を解説!
天文23年(1554年)に起こった、織田信長と今川義元軍との「村木砦の戦い」について解説していきましょう。
今川義元軍が尾張に攻め込んだ「村木砦の戦い」の経緯を解説
隣接する尾張の織田信秀と駿河の今川義元との間で激しいせめぎ合いが起こっていましたが、天文20年(1551年)に将軍・足利義輝の立ち会いのもと両者は和睦をしました。
その後、織田信秀が亡くなると、跡を継いだ織田信長はこの和睦を破棄してしまいます。
これにより今川義元は一気に尾張への侵攻を進め、知多半島にある織田方の緒川城を攻略すべく付近に村木砦を築いて攻勢を強めます。
緒川城の城主・水野信元は織田信長に援軍を求め、それに応えるべく織田信長が自ら出陣していったのです。
初めての鉄砲の使用や「村木砦の戦い」にまつわる逸話やエピソードを紹介
織田信長は居城の那古野城から出陣し熱田に到着すると、熱田神宮で必勝祈願をしてゆきます。
この熱田神宮は、日本の神話の時代から伝わる三種の神器のうちのひとつ「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」が収められている神社であり、武運を祈るにはうってつけの神社です。
この熱田神宮に参拝することで兵の士気を高める狙いがあったのかもしれませんね。
その後、信長軍はそのまま熱田で一晩過ごし、翌朝に海を渡っていくことにしていました。
ところが、その日は嵐のような悪天候であった為、船頭は船を出すことを拒みますが、信長は「源義経が出陣した時も悪天候だったろう。いいから船を出せ!」と言って強引に船を出して海を渡ってしまったのです。
なんとか緒川城までたどり着くと、城主の水野信元に状況を聞き、今川軍の村木砦を攻め落とす為に東側から水野忠分軍・西側から織田信光軍・南側から信長軍という配置で攻勢をかけることにします。
この時、南側の織田信長軍は絶え間なく鉄砲の射撃をして攻め落としたと言われ、これが合戦における初めての鉄砲の使用だったとされています。
織田信長が合戦で鉄砲を使ったのは、武田軍との「長篠の戦い」が有名ですが、実は一番最初はこの「村木砦の戦い」だったのです。
信長軍が受け持った南側は一番困難な場所で、そのために信長の親しい家臣や小姓も数多く死んでしまい、悲しみに暮れた信長は涙を流したという逸話があります。
織田信長の生涯を記録した「信長公記」には数々の合戦の記録が記されていますが、その中でも泣いたということが書かれているのは珍しく、それほどまでに激しい戦闘が繰り広げられたことを物語っていますね。
最優的に、村木砦の今川軍が降伏した為、この「村木砦の戦い」は織田信長軍の勝利で幕を閉じました。
織田信長と斎藤利政(道三)の仲がわかる「村木砦の戦い」の背景や逸話を解説!
さて、この村木砦の戦いは義理の父である斎藤利政(道三)との仲が信頼関係で結ばれていることを示す戦いでもあります。
その背景やそれにまつわる逸話をご紹介します。
織田信長が出陣して那古野城の留守を斎藤利政に託した
水野信元を助けるために、信長の居城の那古野城を離れて南へ進軍して留守にすると、北側に位置する清州城の織田彦五郎から狙われる可能性がありました。
織田彦五郎は同じ織田でも今川義元と通じており、信長の織田弾正忠家とは敵対関係にあったのです。
信長は織田彦五郎が隙きをついて那古野城に攻め込むことを怖れ、留守を義理の父である斎藤利政に託します。
義理の息子の頼みとは言え、苦境にたつ信長を助けることのメリットはなく、本来であれば引き受けたくはない頼みですが、斎藤利政はこれを快諾します。
そして重臣である安藤守就(もりなり)を筆頭に約1000名の兵を派遣して那古野城の警護にあたったのです。
このことからも、織田信長と斎藤利政の仲は固い信頼関係で結ばれていたことがわかります。
これは前年の天文22年(1553年)の聖徳寺での会談で二人が意気投合したことによるものといえますね。
なお、この聖徳寺の会談については下記の記事で詳しく書いていますので、戦国時代を代表する二人の会談エピソードが気になる人はぜひ読んでみて下さい。
-
斎藤道三と織田信長の正徳寺での初会見のエピソードを紹介!二人の関係や手紙についても
令和2年(2020年)の大河ドラマ「麒麟がくる」で、本木雅弘演じる「美濃のマムシ」こと斎藤道三はクセが強くてすごく興味深い人物ですね。 そんな斎藤道三と義理の息子にあたる織田信長の初めての会見は、今な ...
続きを見る
「村木砦の戦い」の後の織田信長と斎藤利政(道三)の逸話を解説
織田信長の勝利に終わった「村木砦の戦い」の後、那古野城の留守をしていた安藤守就は、美濃に帰った際にこのことを斎藤利政に伝えました。
すると斎藤利政は「凄まじい男だ。隣国にはこんな嫌なやつがいるのか!」と独特の表現で織田信長のことを絶賛したという逸話が残っています。
父・信秀の亡きあと、清須の織田彦五郎をはじめとする身内との対立もあり、苦境に立たされていた信長ですが、この斎藤利政や「村木砦の戦い」で味方をした叔父の織田信光の支えがあったからこそその後の飛躍につながったわけです。
ちなみに信長を支えた叔父の信光については下記の記事でご紹介していますので、こちらも併せて読んでみて下さい。
-
織田信光の人物像を織田信長との関係から解説!死因の謎や麒麟がくるの考察についても
「うつけ者」と呼ばれ、織田家内でも敵対者が多かった織田信長。 そんな周りには敵だらけ織田信長を支えたのが織田信光でした。 この記事では、織田信長の味方となり大きな信頼関係にあった織田信光とはどんな人物 ...
続きを見る
「村木砦の戦い」は大河ドラマ「麒麟が来る」の今後につながる重要なシーン
ご紹介した「村木砦の戦い」は、織田信長にとって最初の大きな難関だったといえるでしょう。
この戦いで勝利したことにより、信長は天下を狙う足がかりを掴んだわけですが、一方で助けた斎藤利政は破滅への道へと足を踏み入れてしまったかもしれません。
どういうことかというと、兵を派遣することは自国の美濃には負担を強いることになり、もともと美濃の家臣との関係は良くなかったものがさらに悪化してしまいます。
さらに、義理の息子である織田信長を称賛することは実の息子(違うという噂もある)の斎藤高政と溝を広げることになります。
そしてそのことが、いずれ斎藤利政にわざわいをもたらすことになるわけです。
今後、斎藤利政と息子の高政との関係を左右することにも繋がることからも「村木砦の戦い」は重要なシーンだと言えるでしょう。
さて、このブログでは他にも大河ドラマ「麒麟がくる」の時代背景を取り上げた記事を掲載しています。
登場人物の関係性など、ドラマでは描ききれなかった裏側についても書いていますので、さらに深く楽しみたいと思った人はこちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。
↓大河ドラマ「麒麟がくる」にまつわる特集はコチラ↓
また、「麒麟がくる」をより楽しむ為に明智光秀が主人公の漫画やドラマ・アニメ作品をまとめましたので、様々な角度から明智光秀という人物を知ると面白いと思います。
↓明智光秀が主人公の漫画やドラマ・アニメ↓
-
明智光秀が主人公の漫画やアニメ・ドラマのおすすめを一覧で紹介!無料の視聴方法や格安で買う方法も
大河ドラマ「麒麟がくる」は、長谷川博己さん演じる明智光秀が主人公のドラマで、斬新なキャスティングや華麗な演出で近年の大河ドラマのなかでは群を抜いた人気を博していますね。 しかし、新型コロナウィルスの影 ...
続きを見る