悲劇とみかんと相撲の天皇、第11代垂仁天皇の後を継いだのは、第12代景行天皇です。
※なぜ垂仁天皇が「悲劇とみかんと相撲の天皇」なのかは、下記を御覧ください。
「景行天皇」と聞いてピンとくる人は少ないと思いますが「ヤマトタケル」と言われると、名前は知っているという人は多いのではないでしょうか。
その「ヤマトタケル」は第12代景行天皇の子供で、英雄のようなイメージを持っている人も多いと思いますが、実はとてもヤンチャな人物でした。
そして景行天皇は、ヤマトタケルのあまりのやんちゃぶりに恐怖を抱いていたのです。
さて、そのヤマトタケルの父である第12代景行天皇とはどんな天皇だったのでしょうか。
目次
子孫繁栄 子供はなんと80人! ヤマトタケルは景行天皇の子供
当時は一夫多妻の時代で、歴代の天皇も複数の妻がいましたが、第12代景行天皇は、とりわけ多くの女性を妻としました。
その為、日本の歴史書である「古事記」や「日本書紀」に記録されていない子供も含めると、皇子女は全部で80人いたそうです。
なかでも針間之伊那毘能大郎女(ハリマノイナビノオオイツラメ)との間に生まれた小碓命は、のちのヤマトタケルとして知っている人も多いでしょう。
「ヤマトタケルという名前は知っているけど、どういう人物なのかは知らない」という人も多いでしょう。
ヤマトタケルを一言で言えば「悲劇の英雄」ですが、かなりヤンチャなところもあって、面白い伝説もたくさんあります。
その伝説はここでは書ききれないので、下記の記事を読んでみて下さい。
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ちなみに「日本書紀」によれば、ヤマトタケル※小碓命(オウスノミコト)は大碓命(オオウスノミコト)と双子として生まれました。
景行天皇は双子が生まれたことを不思議に思い、臼(うす)に向かって叫んだそうです。
そのことから、この双子を「小碓命(オウスノミコト)」「大碓命(オオウスノミコト)」と名付けました。
「そんな名付け方ありかよ!?」と思いますよね。笑
子孫繁栄と影響力拡大の為!? 各地の美女を求める
景行天皇が多くの女性を妻にして、80人もの子供をもうけましたが、それは子孫繁栄で血筋を残すことが大きな目的です。
また、妻にむかえる女性は、多くの場合が地域の有力者の娘です。
結婚することで、その有力者との結びつきを深め、その地域への影響力を高めることにも繋がります。
このように、結婚による地域への影響力の拡大は、古事記の神話に登場する出雲大社の神様・大国主命(オオクニヌシノミコト)も行っていました。
とはいえ、景行天皇は美女が好きだったようで、各地の噂の美女を妻にしようとします。
美濃に行った時、弟媛(オトヒメ)という美女がいると噂を聞くと、すぐに会いに家まで行きました。
しかし弟媛は竹林に隠れてしまい、景行天皇と会おうとはしませんでした。
そこで景行天皇は、近くの池に鯉を放ちそれを見て過ごします。
すると、竹林に隠れていた弟媛は、自分も鯉を見ようとこっそり池に行くと、すかさず景行天皇が引き留めます。
しかし弟媛はやんわりと景行天皇の誘いを辞退し、そのかわりに姉を妻にすることを勧めます。
この弟媛の姉が八坂之入日売命(ヤサカイリビメノミコト)で、第13代成務天皇の生母にあたります。
また、同じく美濃の国に美しい姉妹がいると聞くと、やはり気になって妻に迎えようとします。
しかしこの姉妹をめぐって、とんでもない事件が起こってしまいますが、そのことについては下記の記事でご紹介しています。
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西国・東国への領土拡大
初代神武天皇が現在の奈良県で即位し、その後も天皇を中心とする大和政権の治める地域は畿内周辺だけでした。
第10代崇神天皇の時代から徐々に領地を拡大し、第12代景行天皇もこの領地拡大方針を引き継ぎます。
そして、西国の九州や東国の関東地方まで広範囲にわたって領地を拡大しました。
景行天皇の子供であるヤマトタケルが英雄のように語られるのは、この景行天皇の領土拡大策に大きく貢献したことが大きな要因です。