神功皇后(ジングウコウゴウ)は第14代仲哀天皇の后で、第15代応神天皇を生んだ母親です。
ある日、神が神功皇后にのり移り、新羅(朝鮮)に遠征するようにお告げをしますが、仲哀天皇はそのお告げを疑った為、その神に呪い殺されてしまいます。
そして、亡くなった仲哀天皇にかわって、神功皇后が新羅に遠征することになります。
この記事では、神功皇后の新羅遠征と、側近・武内宿禰、実の子・第15代応神天皇との物語をご紹介します。
神の呪いを受けてしまった仲哀天皇については、下記の記事を御覧ください。
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目次
第14代仲哀天皇 死因は神功皇后にのり移った神のたたり?
第14代仲哀天皇は、有名なヤマトタケルの子供で、第15代応神天皇の実の父です。 日本の歴史書「古事記」や「日本書紀」は、歴代の天皇についての記述があり、仲哀天皇についても同様に記されています。 これら ...
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神功皇后の新羅(朝鮮)遠征
神功皇后にのり移った神・住吉三神のお告げを疑った為に仲哀天皇は呪い殺されしまいました。
そこで、仲哀天皇にかわって、后の神功皇后が新羅(朝鮮)への遠征に乗り出します。
住吉三神のお告げの通りにして海を渡ると、大小にかかわらず多くの魚が船を背負って進み、強力な追い風が吹いて船は大きな波を立てて、その波は新羅の内陸の中程まで届きました。
その勢いを見た新羅の国王は、「今後は天皇の言葉に従い、年貢を収めて仕えます」と、戦わずして降伏しました。
そして、勝利宣言をするように、国王の宮殿の前に杖を突き立てて、帰国することにしました。
さて、実は神功皇后は新羅への遠征中、妊娠していました。
その途中で生まれそうになりますが、石を腹に巻きつけて出産を遅らせたのです。
そして、新羅を平定したあと、筑紫の国に帰ってきた時に子供を生みました。
この時に生まれた子供が品陀和気命(ホムダワケノミコト)、のちの第15代応神天皇です。
ところで、神功皇后が新羅に遠征に向かう前に、玉島里(佐賀県)という所で、勝利を占う為に、小川のほとりの岩に座り、服の糸と飯粒を餌にして鮎釣りをしました。
このことから、この時に座った岩の名前を「勝門比売(かつとひめ)」と言います。
義理の兄 香坂王と忍熊王の陰謀
神功皇后が応神天皇を出産すると、腹違いの義理の兄・香坂王と忍熊王が、応神天皇の即位を阻もうと企みました。
それを察知した神功皇后は、「生まれた子はすでに亡くなった」と言い広め、喪船(棺を乗せる船)を作り、一緒に九州の筑紫から大和へ帰ることにしました。
それでも香坂王は斗賀野(とがの:大阪市)で一行を待ち構えていましたが、天罰が下ったのか、大きな猪に食い殺されてしまいました。
一方、忍熊王は軍勢を整え、同行していた兵船を襲撃しました。
ところが、その兵船は空っぽで、実は喪船の方に神功皇后の兵が潜んでいたのです。
ここで、忍熊王軍は伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を将軍とし、対する神功皇后軍は建振熊命(タケフルクマノミコト)を将軍として、戦いが始まりました。
建振熊命は「神功皇后はすでに亡くなってしまったから、もう戦う必要はない」と偽って、自らの弓の弦を切って降伏しました。
その言葉を信じ、伊佐比宿禰も弓を外して兵を収めさせました。
すると、降伏したはずの建振熊命は、髪の中に隠してた弦を再び弓につけ、伊佐比宿禰を攻撃しました。
不意打ちを受けた忍熊王と建振熊命は、逃げたものの追い詰められて、最期は船に乗って琵琶湖に自ら身を投げました。
こうして、犯行勢力を抑え、第15代応神天皇が即位することになります。
応神天皇 気比神宮の神と名前を交換する
忍熊王との戦いに勝つと、神功皇后の側近の武内宿禰(タケウチスクネ)は戦の禊をする為に、応神天皇を連れて角鹿(つぬが:福井県敦賀市)に滞在していました。
すると、そこに住む神が応神天皇の夢の中に現れて「私の名をあなたの名前と換えたい」と言いました。
応神天皇はそれを承諾すると、その神は「明日の朝、浜に行きなさい。名前を換えたことへの贈り物を与えよう」と言いました。
翌朝、言われたとおり浜に行くと、漁で捕ったような鼻が傷ついたイルカが一面に打ち上げられていました。
それを見た応神天皇は「私に御食(みけ:神に捧げる食事)を与えてくださった」と喜びました。
これは、神様食料が応神天皇に与えられたことを意味しています。
そこで、この神の称え御食津大神と名付けました。
今で言う気比大神で、現在の福井県敦賀市の気比神宮に祀られている神です。
こうして禊を済ませて大和へ帰ると、母の神功皇后が酒宴を開き歌を詠みました。
そして、武内宿禰が応神天皇の為に、その歌に答えて歌を詠みました。
こうして、神と名前を交換し、酒宴を無事に済ませたことで、正式に応神天皇の即位が承認されました。
神功皇后に仕えた武内宿禰とは?
武内宿禰(タケウチスクネ)は、第12代景行天皇に仕えはじめ、続く第13代成務天皇の時代に大臣(おおおみ:宮廷で最高位の臣に対する尊称)に取り立てられ、第16代仁徳天皇までの歴代天皇に仕えた人物です。
5代にわたる天皇に仕え、300歳近くまで生きたとされていますが、おそらく天皇に仕えた複数の忠臣達の逸話を「武内宿禰」という人物に見立てたのではないか、とされています。
古代においては、半年で1歳としていたとも言われますが、さすがに300歳は考えにくいですよね。笑
日本の歴史書「古事記」にはあまり多くは登場しませんが、「日本書紀」では度々登場し、特に神功皇后の側近として活躍した様子が絵画としても残っています。
また、天皇の忠臣として語られることから、明治時代以降の紙幣の肖像画として何度か採用されています。