第14代仲哀天皇は、有名なヤマトタケルの子供で、第15代応神天皇の実の父です。
日本の歴史書「古事記」や「日本書紀」は、歴代の天皇についての記述があり、仲哀天皇についても同様に記されています。
これらの歴史書に記されている仲哀天皇とその后・神功皇后(ジングウコウゴウ)の物語をご紹介します。
目次
第14代仲哀天皇の系図
第14代仲哀天皇は、有名なヤマトタケル(日本書紀:日本武尊、古事記:倭建命)の子供で、帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)という名前でした。
ヤマトタケルは天皇になってはいませんが、その父が第12代景行天皇なので、男系の血筋を継承しています。
なお、第13代成務天皇は、ヤマトタケルの腹違いの兄弟で、仲哀天皇のおじにあたります。
これまでは、天皇は実の子供が天皇を継ぐ「直系継承」でしたが、仲哀天皇の時に初めて「傍系継承」になりました。
神功皇后との間に生まれた品陀和気命(ホムダワケノミコト)が、後の第15代応神天皇となります。
また、大中比売命(オオナカヒメノミコト)との間に生まれた香坂王(カグサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)は、後に重大な事件を起こしますが、そのことについてはまた別の記事にてご紹介します。
仲哀天皇の崩御 死因は神のたたり?
仲哀天皇は、九州南部の部族・熊曾(くまそ)を討伐する為に、筑紫の訶志比宮(かしひのみや:福岡県)に滞在していました。
ある日、仲哀天皇が神を招くために琴を弾いていると、神功皇后に神がのり移り「西の方に国があり、そこには輝くような金銀財宝がたくさんある。私がその国を服属させてあげよう」と告げました。
※日本書紀では「西の国」を朝鮮半島の新羅と記している。
しかし仲哀天皇は「高い所に登って西の方を見ても、国は見えず、ただ大海があるだけだ」と、そのお告げを疑い、琴を弾くのをやめてしまいました。
すると、お告げをした神は怒り「今のこの国はお前が治める国ではない。お前は死の国に行け」と、仲哀天皇に言いました。
それを聞いた側近の武内宿禰(タケウチスクネ:建内宿禰)は、畏れをなして、仲哀天皇に再び琴を弾くように助言します。
仲哀天皇は、しぶしぶと再び琴を弾きはじめますが、すぐにその琴の音色は聞こえなくなってしまいました。
そのことを不審に思い、仲哀天皇のもとに行くと、すでに亡くなっていたのです。
神功皇后にのり移った神の言葉を信じなかった仲哀天皇は、その神の怒りに触れ、そのたたりにあってしまったのです。
仲哀天皇の死因 たたりを起こした神の正体は?
このように仲哀天皇は、神の怒りに触れてしまったことで亡くなってしまいました。
そのことに恐れおののき、様々なお祓いをした後、側近の武内宿禰は祭場でその神にお告げをこいました。
するとその神は、やはり西の国を攻めろと言い、神功皇后のお腹にいる子が日本を治めるべきだと告げました。
そして、恐る恐るその神の名を尋ねると「我は、底筒男、中筒男、上筒男の三柱の神で、この言葉は天照大御神の御心だ」と言いました。
この三柱は、天照大御神と同じく、伊邪那岐神(イザナギノカミ)が禊(みそぎ)をした時に生まれた神々で、住吉大社に祀られる神様です。
天照大御神が生まれた、伊邪那岐神の禊については、下記の記事を御覧ください。
その神は続けて「その西の国に行くには、すべての神々を祀り、我ら三神を船に祀って箸と皿を海原へ散らして浮かべるとよい」と告げました。
父・ヤマトタケルと同じ運命をたどった仲哀天皇
仲哀天皇は、神の怒りに触れてしまった為に亡くなってしまいましたが、実は父であるヤマトタケルも、同様に神の怒りに触れてしまった為に命を落とします。
その父・ヤマトタケルの死や、数々の伝説は下記の記事にまとめましたので、ぜひこちらも読んでみて下さい。
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同じように神のたたりを受けた父・ヤマトタケルは、古事記でも数々の伝説が記され、その名は多くの人が知っています。
一方、仲哀天皇に関する記述は、この場面だけで、后の神功皇后がクローズアップされています。
名前からしても、哀愁の漂う存在の天皇だったようです。