戦国時代

武井夕庵の織田信長の右筆としての経歴や人柄は?安土城の屋敷のエピソードについても解説!

2020年7月5日

織田信長は目立った活躍がなければ、いくら長く仕えていても容赦なく切り捨てるという厳しい一面がありますよね。

ですから多くの家臣は、面と向かって意見を述べることはできなかったことでしょう。

そんな中、武井夕庵せきあんという人物はたびたび信長に対し諫言(意見・忠告)したというエピソードを持っています。

はたしてこの武井夕庵はどんな人物だったのか、その経歴をたどりながらご紹介しています。

 

斎藤道三や織田信長の右筆の経歴をもつ武井夕庵とは?

臣従 土岐家→斎藤家→織田家
出生地 諏訪?
生没年 不明

武井夕庵が務めた「右筆」とは?

右筆とは戦国時代において、武家の秘書役を行う事務官僚のような存在です。

武士の中には読み書きのできない文盲の者も珍しくなく、また文章の正しい様式を心得ていない場合も多々ありました。

そこで、右筆が武士に変わって書状や文書を代筆する職務を行っていたのです。

やがて武士の地位が向上するにつれ公私ともに文書を出す機会が増えると、右筆は専門職として文書を作成するようになり、武士は署名と花押を書くだけというケースも増えました。

このように右筆によって書かれた文書も、署名した武士の公的な文書として扱われたため、外交や政策を熟知した人物である必要がありました。

 

織田信長の右筆になるまでの武井夕庵の経歴を簡単に紹介

武井夕庵は諏訪地方出身と言われていますが、生年や両親など出自については不明な点ばかりです。

もともとは美濃の守護であった土岐家に使えていましたが、斎藤道三が下剋上によって美濃を支配するようになると、斎藤家に仕えるようになったと言われています。

その後、1556年に斎藤道三が長良川の戦いで息子の斎藤義龍(高政)と対立すると、武井夕庵は息子の義龍に従い、以後も斎藤家の右筆として存在感を示します。

その後、病気のために斎藤義龍は早逝してしまい、その跡を幼少の龍興が継いだあとも重臣の一人として斎藤家を支える存在でした。

しかし、織田信長が攻め込んできて拠点の稲葉山城を奪い美濃を支配するようになると、稲葉一鉄ら美濃三人衆と同様に、武井夕庵も織田信長の家臣として仕えることになりました。

ちなみに、この時ともに織田信長の家臣となった稲葉一鉄(良道)は、「頑固一徹」の語源にもなった人物です。

そのことについては下記の記事でご紹介していますので、こちらも参考に読んでみて下さい。

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織田信長に仕えてからの武井夕庵の経歴を紹介

斎藤家から織田信長の家臣となった武井夕庵は、これまでの右筆としての働きに加え官僚(吏僚)としての活動も行います。

信長が足利義昭を上洛させ京都を支配するようになると、隣接する中国地方一体を支配していた毛利氏との外交交渉を羽柴秀吉とともに行うようになります。

この時、毛利氏側の吉川元春や小早川隆景らと交渉に当たり、外交面でもその手腕を発揮しました。

また、合戦後などにその状況を調査する検視を行ったり必要とあらば奉行や特使も務めます。

信長が皇室から東大寺正倉院に収められてる蘭奢待らんじゃたいという宝物の香木を削ることを許可されると、その蘭奢待を運ぶ特使の一人にも選ばれました。

このように、武井夕庵は右筆としての本来の活動の他に、重要な場面では信長から重用されていたことがわかりますね。

 

安土城での屋敷の位置など、織田信長から厚遇を受けていた

信長が満を持して築いた安土城内の武井夕庵の屋敷は、森蘭丸、津田信澄、織田信忠に次ぐ好立地だったと言われます。

また、その安土城で開催された茶会の席次は、信長の嫡男である織田信忠に次ぐ待遇であったと言います。

こうしたことからも、いかに武井夕庵が織田信長から厚遇され、信頼を得ていたかがわかりますね。

 

織田信長に度々諫言かんげん(意見)した武井夕庵のエピソードを紹介

右筆として織田信長に仕え、外交や特使としても大いに活躍していた武井夕庵は、ただ信長の命令に従っていたわけではなく、たびたび諫言(意見・忠告)したというエピソードがあります。

一般的に逆らったら恐ろしいと思われる織田信長に対し、一体どんなこと諫言したのかご紹介します。

  • 元亀元(1571)年、比叡山延暦寺を焼き討ちしようとした信長に対し、重臣の佐久間信盛と共に諌めようとした(『甫庵信長記』)
  • 天正4(1576)年頃、加賀で一揆勢を起こした一向宗の門徒を虐殺した信長に対し、古典を引用して君子の道について説いた。(『甫庵信長記』)
  • 天正6(1578)年正月、宮中の節会や礼学の保護を信長に勧めた。(『甫庵信長記』)
  • 天正6(1578)年10月、茶道に明け暮れると武道が疎かになることを諫言した。(『当代記』)
  • 戦いに明け暮れて家中で礼儀が疎かになったので、信長に諫言して家中の礼法を正した。(『武家事紀』)

ただ、この逸話のもととなっている『甫庵信長記』は、江戸時代の初期に小瀬甫庵おぜほあんという人物が書いた書物で、創作性が強く信憑性は低いとされています。

ただ、これだけ逸話が残っているので、内容の真偽はともかく、信長に面と向かって意見を交わす人物であったのでしょう。

 

 

まとめ

  • 織田信長の右筆として活躍した武井夕庵は、もともとは美濃の土岐家、斎藤家に仕えていた経歴をもつ。
  • 武井夕庵は、右筆意外にも毛利家との外交や蘭奢待搬送などの特使を務めるなど、様々な経歴をもつ。
  • 安土城内の屋敷の位置や、茶会での席次などから武井夕庵は信長から厚遇されていたことがわかる。
  • 武井夕庵は、織田信長に対しても諫言したエピソードがある。

織田信長の家臣は、武将だけでなく武井夕庵のような優秀な文官も数多くいました。

そういった人物について下記の記事でご紹介していますので、こちらも併せて読んでみて下さい。

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