引用:Wikipedia
織田信長の家臣は戦場で戦う武将だけではなく、家中の政務を担う人材も豊富で、中でも特に優秀な人材として織田信長から絶大な信頼を得ていたのが村井貞勝です。
織田信長は将軍・足利義昭を奉じて京都に上洛すると、村井貞勝などを京都所司代に任命して京都の統治を任せます。
京都に赴任した村井貞勝は、様々な取り組みを行って京都の統治に尽力しますが、残念ながら「本能寺の変」に巻き込まれて亡くなってしまいました。
さて、そんな悲運な最期を迎えてしまった村井貞勝はどれほど優秀な人物だったのか、京都でのエピソードを交えながらご紹介しています。
目次
織田信長の家臣村井貞勝とはどんな人物か解説!
臣従 | 織田家(織田信長) |
出生地 | 近江国? |
生没年 | 永正17年(1520年)頃?~天正10年6月 |
村井貞勝は『太閤記』の記述によれば近江国(現在の滋賀県)で生まれたとされていますが、生まれた年は定かではなく1520年頃と推定されます。
1556年、信長の弟の信行(信勝)が家督をめぐって謀反した「稲生の戦い」が起こりました。
この時、村井貞勝はすでに信長の家臣となっており、兄弟二人の母である土田御前からの依頼を受け、敗れた信行(信勝)や柴田勝家・林秀貞らの助命交渉を請け負いました。
本来であれば謀反を起こし敗れた信行(信勝)らは厳しい処分が下されても不思議ではありませんが、土田御前がこうした難しい依頼をするということは、それだけ村井貞勝への信頼が厚かったともいえますね。
もちろん、信長からの信頼もなければ取り合ってもらえないわけですから、二つに割れていた織田家中双方から信頼される人物だったと考えられます。
また、信長が美濃攻略にあたり、美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)らを引き込む際に、この三人衆から人質の受け取りに出向いています。
このように、敵対関係にあった人物との交渉に臨むという難しい役割をこなしていることからも、村井貞勝の折衝能力の高さがわかりますね。
ちなみに、村井貞勝と同じように交渉や行政担当を務めた林秀貞という人物がいます。
安土城の天主が完成した際に見物を許したのは、この林秀貞と村井貞勝だけだったそうです。
ちなみに、この林秀貞については下記の記事でまとめていますので、こちらもぜひ読んでみて下さい。
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将軍・足利義昭の上洛以降、京都を統治する村井貞勝のエピソード
1569年、美濃を治めたのちに将軍足利義昭を奉じて京都に上洛させた織田信長は、その後の京都での行政・治安維持など統治を家臣に託すことにします。
これ以降、村井貞勝はその行政手腕を発揮して京都の統治を任され続けます。
二条城の造営を任される村井貞勝
将軍・足利義昭が上洛してからというもの、それ以前に京都を牛耳っていた三好三人衆は、自分たちにとって目障りな足利義昭を殺害してしまおうと企てます。
そして1569年に三好三人衆は京都本圀寺にいた足利義昭を襲撃しますが(本圀寺の変)、この時は明智光秀の活躍もあり足利義昭は一命をとりとめます。
その後も三好三人衆らの襲撃から足利義昭を守るため、織田信長は防備の固い二条城の造営を村井貞勝に命じました。
この二条城の造営は近江から大勢の人手を動員した大規模な工事となりましたが、村井貞勝は着工からわずか2ヶ月でこれを完成させたと言われています。
京都御所の壁の修復をイベント化してしまう
村井貞勝は京都御所の築地(土で塗り固めた塀)を修理するにあたり、町人を動員してそれをイベント化し大成功を治めます。
どういうことかというと、壁の修理する町人をいくつかの班に分けて、それぞれ範囲を決めて分担させます。
そしてその周りでは歌や踊りを披露する者をおき、まるでお祭りのような雰囲気を作り出しました。
するとそのお祭り状態の壁の修復現場には続々と見物人が集まり、当時の正親町天皇も見物にやってくるほどの賑わいだったと言います。
こうした大勢の観客の前で壁の修復をしていた町人は「他の班には負けられない」と競い合うように作業を続け、あっという間に壁の修復が完了してしまったそうです。
村井貞勝は、ただ指図して仕事をさせるだけではなく、人の心を巧みに掴んでやる気を起こすアイディアマンでもあったわけですね。
宣教師のルイス・フロイスから絶賛される
キリスト教布教の為にポルトガルからやって来ていた宣教師のルイス・フロイスは、その手記の中で林秀貞を「都の総督」と呼び、「尊敬できる異教徒の老人であり、甚だ権勢あり」とその手腕を高く評価していたと言います。
村井貞勝は本能寺の変で討ち死にしてしまう
明智光秀が引き起こした「本能寺の変」は、その名の通り京都の本能寺で起きましたね。
京都にいた村井貞勝はその本能寺の目と鼻の先に住んでおり、知らせを受けるやいなや妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠のもとへと駆けつけます。
信忠はすぐに本能寺へと駆けつけようとしますが、村井貞勝は「もはや本能寺は絶望的でしょうから、ここよりも守りの固い二条城へ移動しましょう」と説得しました。
自らが普請に携わっていただけに二条城の防備力の高さを知っていたからでしょう。
その二条城でなんとか持ちこたえようと試みますが、大軍で押し寄せる明智軍にはかなわず危うい状況に追い込まれます。
そんな中、この二条城を屋敷としていた皇太子誠仁親王を巻き添えにするわけにはいかないと、親王は二条城から脱出させるよう明智光秀と交渉にあたり、明智光秀もこれを認め親王を守ることには成功します。
しかし、その後なおも続く明智軍の攻撃に観念し、織田信忠は自害して果て、村井貞勝も跡を追うように自刃してこの世を去りました。
まとめ
- 村井貞勝は家督相続直後から織田信長に仕え、交渉事や行政運営の面で信長を支えた家臣。
- 信長の弟・信行(信勝)との戦いのあと、土田御前の依頼で仲裁役を努めるなど、難しい交渉役を担う人材だった。
- 足利義昭の上洛以降、京都を統治する立場となり二条城の造営や京都御所の壁修復などで手腕を発揮した。
- 「本能寺の変」によって信長の嫡男・信忠を守ろうとするも無念のうちに自害してこの世を去った。
今回ご紹介した村井貞勝以外にも、織田信長のもとには武将以外にも優秀な奉行は数多くいました。
こうした人物については下記の記事でまとめていますので、こちらも併せて読んでみて下さい。
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