松永久秀は「戦国三大梟雄の一人」とされており、悪行の数々と爆死したという逸話もある人物です。
この記事では、そんな数々の逸話のある松永久秀とはどんな人物だったのか、また織田信長とはどんな関係だったのか解説しています。
また、大河ドラマ「麒麟がくる」での吉田鋼太郎演じる松永久秀の見どころについても触れています。
目次
梟雄(きょうゆう)とはどんな意味か簡単に解説!
まずは、主に戦国時代の武将に冠される「梟雄」という言葉はそもそもどんな意味なのでしょうか?
「梟雄(きょうゆう)」という言葉を調べると、
残忍で勇猛な人物
と解説されています。
ただ、これだけの意味であれば、戦国時代の名だたる武将はそのほとんどが該当しそうな気もしますね。
あえてこの言葉を使うことには、もっと深い意味が込められていると考えられるので深堀りしてみます。
「梟」という字は鳥の「ふくろう」で、その生態は夜行性でネズミやモグラやミミズなどを捕食する肉食です。
日中は木の枝の上でじっとしていますが、夜になって獲物を獲る時は、羽音をたてずにまっすぐ獲物に近づき、足の指を広げて獲物の背中に突き立て押さえ込み、そのまま絞め殺してから捕食します。
中国では「ふくろうは生まれた雛が親を食べて育つ」と信じられ、不幸や災いの象徴だという迷信がありました。
その迷信がもとで、厄除けの意味でふくろうを木にはりつけにするという風習があり、それが「梟」という漢字の語源となっているそうです。
つまり「梟(ふくろう)」は、親を殺して育つ不吉な鳥という意味があり、「梟雄」とは仕えている主人を殺して自分がのし上がるという意味が込められていると言えます。
また、ふくろうの捕食のように、相手に気づかれずに絞め殺すという残忍さも併せ持った人物を「梟雄」と呼んだわけですね。
戦国三大梟雄
・斎藤道三
・松永久秀
・宇喜多直家(または北条早雲)
いずれも残忍で数々の悪行の逸話がある人物です。
ただ、その梟雄たち全てを織田信長は従わせたり味方につけているんですよね。
そう考えると、織田信長が一番恐ろしいことがよくわかりますね。
※北条早雲は織田信長と生きた時代が違います。
戦国三大梟雄の一人・松永久秀とはどんな人物か?悪行と織田信長との逸話から簡単に解説!
さて、戦国三大梟雄の一人と呼ぼれた松永久秀とはどんな人物だったのか、その数々の悪行と織田信長との逸話から解説していきましょう。
悪行その1.三好長慶の家臣となるも、三好家の一族を暗殺して勢力を伸ばした
天文18年(1549年)に三好長慶が、主君の細川晴元や将軍・足利義輝らを京都から追放すると、畿内は三好長慶が支配するようになります。
その三好長慶に右筆(ゆうひつ:現在の書記官のような存在)として仕えていましたが、そこでめきめきと頭角を現していきます。
やがて松永久秀は主君の三好長慶と同格の地位まで登りつめてゆくと、三好長慶の弟や嫡男などの近親者が相次いで死亡し、それにともなって意気消沈した三好長慶も息を引き取ります。
あまりにもタイミングよく三好家の人々が亡くなってしまったので、松永久秀が三好家を乗っ取るために暗殺したのではないか、という噂がありました。
これにより松永久秀は「主人殺し」の悪行を行った極悪人というイメージがついたのです。
ただし、実際は死因は他にあることがわかっており、松永久秀が殺害したものではないことは判明しています。
悪行その2.三好三人衆とともに将軍・足利義輝を殺害した
三好長慶と将軍・足利義輝は対立関係にあったものの、永禄元年(1558年)に和睦をして三好家が将軍家を支える体制が整えられていました。
永禄7年(1564年)に三好長慶が亡くなると、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と呼ばれる三好家一族と松永久秀が三好家の実権を握るようになります。
すると、自分たちが全てを掌握したいと考えた三好家にとっては、将軍による体制を復活させようとした足利義輝は邪魔な存在として映ります。
三好長慶が死んだ翌年の永禄8年(1565年)、三好三人衆をはじめとする三好家の一行はついに将軍・足利義輝を襲撃して殺害してしまったのです。
この将軍・足利義輝襲撃事件は「永禄の変」と呼ばれ、松永久秀が主導して引き起こしたものとされていました。
ただ、近年の研究によって、松永久秀は事件当日に別の場所にいて参加していないことがわかり、この件には関与していなかったと考えられるようになりました。
悪行その3.三好三人衆との戦いで東大寺大仏殿を焼き討ちした
将軍・足利義輝を殺害して畿内を手中に収めた三好三人衆と松永久秀ですが、今度は三好家内での覇権を争う結果になってしまいます。
お互いに一歩も引かず戦いを繰り返し、永禄10年(1567年)に三好三人衆が奈良へ攻め込んできた際、松永久秀は三人衆が陣を構えていた東大寺を奇襲をかけます。
この時、戦闘中に放たれた火が大仏殿にまでまわり、それがもとで大仏の頭も焼失してしまいました。
この大仏殿焼失事件は、織田信長が徳川家康に松永久秀のことを紹介する際に「松永久秀は大仏を焼き討ちした人物」と言ったことで、松永久秀の悪行のひとつとして定着しました。
ただ、おそらくこれは「それほどまでのことをやるスゴイ人物だ」ということを示したもので、実際に松永久秀が東大寺大仏殿の焼き討ちを命じたかどうかは定かではありません。
一説には、キリスト教を布教させたいイエズス会の人間が、混乱に乗じて仏教の象徴である大仏を焼き討ちしてしまったという意見もあります。
松永久秀と織田信長の逸話その1.織田信長を2回裏切った
畿内で三好三人衆と対立していた松永久秀は劣勢に立たされており、それを挽回するべく織田信長と同盟関係を結びます。
織田信長に従うことを示すために、当時は「これひとつで城が建つ」とまで言われた「九十九髪茄子(つくもかみなす)」という茶器を人質がわりに差し出します。
そして織田信長によって三好三人衆が駆逐されると畿内は平定され、これにより松永久秀は畿内で大きな力を手に入れることになります。
ところが、やがて織田信長と15代将軍の足利義昭が対立して信長包囲網が形成されると、松永久秀も織田信長を裏切って足利義昭に通じるようになります。(1度目の裏切り)
そして元亀3年(1572年)に、ついに松永久秀は織田信長に対して敵意を表明し、あろうことか三好三人衆と組んで織田信長に対抗したのです。
しかし、この信長包囲網の一番の核である武田信玄が京都へ攻め込む途中で病死してしまうと、一気に形成は逆転し足利義昭は追放されてしまいます。
それに伴って松永久秀の居城の多聞山城も織田信長に攻め込まれますが、降伏して命は助けられ再び織田信長に仕えることになります。
その後は織田信長のもとで対立関係にあった石山本願寺勢力攻略の役割の一端を担うことになりますが、天正5年(1577年)には反・織田信長勢力の上杉謙信・毛利輝元・石山本願寺勢力などと呼応するようになります。
そして松永久秀は石山本願寺攻めの要である天王寺砦を焼き払うと、居城の信貴山城に立て籠もり再び織田信長を裏切って対立したのです。(2度目の裏切り)
松永久秀と織田信長の逸話その2.織田信長に攻め込まれた時に茶器とともに爆死した
信貴山城に立て籠もった松永久秀に対し、織田信長は明智光秀や細川藤孝らを派遣して攻め込み降伏を促します。
その際、「平蜘蛛」と呼ばれる名物の茶器を差し出せば命は助けると告げますが、松永久秀は「平蜘蛛の茶釜と我らの首と2つは信長公のお目にかけようとは思わぬ。鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と応えました。
そして織田信長軍が攻め入ってくると、松永久秀は平蜘蛛の茶釜に火薬を詰めて火をつけ木っ端微塵に爆死したのです。
実際には平蜘蛛の茶釜を叩き割って天守に火を放って自刃したそうで、爆死というのは後世の創作のようです。
ただ、「松永久秀ならやりかねない」と思わせるほど、その人生は波乱万丈だったことを物語っていますね。
大河ドラマ「麒麟がくる」の松永久秀(吉田鋼太郎)と織田信長(染谷将太)の関係が見どころ
さて、大河ドラマ「麒麟がくる」では吉田鋼太郎が松永久秀が演じていますね。
松永久秀は「梟雄」のイメージが根強くありますが、近年では「実はそれほど悪行を行っていたわけではない」という見直し論も高まっています。
はたして「麒麟がくる」では旧来の「梟雄」としての残忍なイメージの松永久秀として描かれるのか、それとも近年見直されている松永久秀像を取り入れるのか注目です。
いずれの場合でも、吉田鋼太郎がどのように演じるか、また旧来のイメージを覆す染谷将太演じる織田信長との関係はどうなるのかが見どころですね。
また、松永久秀の最期は爆死するのか?ということも気になりますね。
さて、このブログでは他にも大河ドラマ「麒麟がくる」の時代背景を取り上げた記事を掲載しています。
登場人物の関係性など、ドラマでは描ききれなかった裏側についても書いていますので、さらに深く楽しみたいと思った人はこちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。
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