アニメ「へうげもの」での高山右近
戦国時代には宣教師の来日とともに、キリスト教を信仰する戦国大名も続々と増えていきました。
なかでもキリシタン大名として信仰心が厚かったのが高山右近です。
しかし、権力者が豊臣秀吉や徳川家康へと移りゆく中で、キリシタン大名の高山右近はその政策に人生を翻弄されます。
この記事では、そんな高山右近の波乱万丈な生涯をご紹介しています。
目次
キリシタン大名・高山右近の経歴と功績を解説!荒木村重や前田利家との関係性も
臣従 | 和田氏→荒木村重→織田信長→豊臣秀吉→前田家 |
出生地 | 摂津国 |
生没年 | 天文12年(1553年)~元和元年(1615年) |
主な戦歴 | 天正6年(1578年)有岡城の戦い |
天正10年(1582年)山崎の戦い | |
天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い | |
秀吉の四国・九州攻略など | |
天正18年(1590年)小田原攻め | |
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い |
摂津の守護・和田惟政に仕えるもその子・惟長と対立
織田信長が足利義昭を将軍に擁立したことに伴い、和田惟政が摂津の守護に就任しました。
高山右近は父・飛騨守(照友)と共に和田惟政に仕えるようになりました。
この和田惟政と高山飛騨守は仲がよかったそうで、飛騨守の勧めで宣教師と出会って以降、キリスト教に好意をもったと言われています。
この和田惟政については、下記の記事でご紹介していますので、当時の状況をさらに知りたい方はこちらも参考にしてみて下さい。
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摂津を支配していた荒木村重に仕える
高山親子と友好関係にあった和田惟政ですが、同じ摂津の有力者・池田知正と荒木村重らと対立し、その戦いで討ち死にしてしまいます。
これに伴って、高山親子は和田惟政跡を継いだ子の和田惟長に仕えるわけですが、この惟長とは折り合いが悪く関係が悪化していきます。
これに乗じて荒木村重が高山親子をそそのかし、和田惟長と戦うように仕向けます。
そしてついに両者は一戦交えると、その戦闘で負傷した和田惟長は居城の高槻城を捨てて逃れ、その傷がもとで亡くなってしまいました。
こうして城主不在となった高槻城は高山親子が乗っ取り、裏で操っていたと思われる荒木村重に仕えるようになったのでした。
この荒木村重については下記の記事で紹介していますので、ぜひこちらも読んでみて下さい。
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荒木村重の謀反により織田信長に仕え功績を認められる
天正6年(1578年)、仕えていた荒木村重が突如織田信長に背き、居城の有岡城に立て籠もり抗戦します。
高山親子は、荒木村重に家族を人質に差し出していたこともあり、これに従い高槻城に籠もることにしました。
これに対し織田信長は大軍を率いて摂津に入ると、高山右近を降伏させようと説得を試みます。
この時、高山右近が熱心なキリシタンであることに注目し、交渉役の羽柴秀吉と堺奉行の松井友閑に宣教師を同行させ、織田方に降るように説得させました。
この時、信長は宣教師に対し「説得に成功すれば布教を援助するが、もし失敗すれば弾圧する」と脅しに近い条件を突きつけて向かわせました。
高山右近にもその条件は知らされ、説得に来た宣教師を守るためにも屈服せざるを得ず、信長に降ることを決意します。
信長と敵対していたわけですから、当然厳しい処分が下るかと思いきや、意外にも信長は高山右近の降伏をとても喜び、小袖や馬の他金子20枚を与える高待遇で迎え入れたのです。
ただ、父の飛騨守は最後まで抵抗を続けた為、信長の反感を買って越前へと追放されてしまいました。
なお、高山右近の降伏により窮地に追い込まれた荒木村重は、家臣や家族も捨てて一人有岡城を抜け出ました。
その後、高山右近は信長のもとに仕え、丹羽長秀や池田恒興らのもとで従軍したり、羽柴秀吉の中国・毛利攻め一翼を担う活躍をしました。
なお、信長はキリスト教の布教に寛容だったこともあり、高山右近は拠点の高槻周辺の布教活動を熱心に行い、約25000人の人口のうち約18000人がキリシタンになったと言われています。
織田信長没後は豊臣秀吉に仕えるも、小豆島へ追放され小西行長の庇護を受ける
織田信長の没後、高山右近は羽柴秀吉につき明智光秀との「山崎の戦い」や柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」に参戦します。
しかし、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家方の佐久間盛政によって中川清秀が討ち取られた際、戦わずして陣を放棄してしまうと、周囲から非難を浴びると同時に秀吉から謀反の疑いをかけられてしまいました。
このことがきっかけで、一時居城の高槻城を攻め込まれますが、誤解が解けてからは以前と変わらぬ待遇を受けています。
高山右近はその後も一貫して秀吉に仕え、徳川家康との「小牧長久手の戦い」や四国・九州攻略にも従軍し功績を収めてゆきます。
ところが、このあと高山右近にとって大きな事件が起こります。
天正15年(1587年)、九州の島津氏を降伏させ、帰陣の途中で立ち寄った長崎で突如「バテレン追放令」を出したのです。
この引き金は、野心的な宣教師のガスパール・コエリョが軍艦のフスタ船をひけらかして挑発したことや、日本人を奴隷として売り払おうとしていたことが明るみになったことが原因だと考えられています。
これにより、「大名としての栄華かキリスト教の信仰か」の二者択一の選択を迫られたキリシタン大名はのきなみ棄教しますが、高山右近だけは大名の地位を捨ててまでもキリスト教の信仰を選んだのです。
こうして、秀吉に背いてまでもキリスト教の信仰にこだわった高山右近は、全ての領地を没収され追放されました。
この時、同じくキリシタン大名であった小西行長によって、しばらくの間は小豆島でかくまわれて過ごすことになりました。
ちなみに、高山右近がキリスト教の信仰にこだわり追放の憂き目にあったこの事件は、戦国時代のアニメ「へうげもの」でも取り上げれています。
そのことについては下記の記事でご紹介していますので、こちらも読んでもらえると嬉しいですね。
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前田利家が加賀へ招き、以降は客将として前田家で過ごす
小豆島へ追放から1年後、かくまっていた小西行長が九州の肥後ゆきを命じられると、加賀の前田利家が客将として高山右近を招き入れます。
一説には、前田利家が高山右近を招き入れた理由は、追放せざるを得なかった秀吉が高山右近の身を案じ、盟友である前田利家に託したからとも言われています。
その後、前田氏の麾下で天正18年(1590年)には北条氏との「小田原攻め」にも参戦し、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」にも参戦しています。
高山右近は築城の知識もあり、金沢城の修築の際には大きく役にたち、堀の掘削にも貢献したそうです。
また、慶長10年(1605年)には金沢に南蛮寺を建立するなど、この地でも熱心に布教活動を行うようになります。
このように、一度は追放されたものの、高山右近は前田家の庇護のもと客将として精力的に活動して過ごすことになりました。
高山右近はすき焼きの生みの親?牛鍋のエピソードを紹介!
アニメ「へうげもの」でのワンシーン
農機具の鋤と防具で肉を焼く
当時、日本では牛馬の肉を食する習慣はなかったそうですが、高山右近は外国人宣教師たちとの交流の中で南蛮の食文化にも触れ、諸将を招いてすき焼きのような牛鍋を食べたという記録があります。
それは天正18年(1590年)の小田原攻めの陣中のこと。高山右近は千利休の弟子仲間で交流のあった細川忠興と蒲生氏郷を招き、現在のすき焼きのような牛鍋を振る舞ったそうです。
すき焼きの始まりについては諸説ありますが、牛肉の料理が庶民にも広がったのは高山右近の布教活動によるところも大きいかもしれませんね。
ちなみに、この記録とは異なりますが、高山右近がすき焼きのような牛鍋を食べていたというエピソードはアニメ「へうげもの」でも取り上げられ、そのシーンは13話「スキヤキ」で見ることができます。
高山右近の最後はフィリピンのマニラで生涯を閉じる:死因は長旅の影響か
さて、高山右近は関ヶ原の戦い以降も加賀の前田家のもとで平穏な暮らしていましたが、江戸幕府が開かれしばらくするとそれは一転します。
慶長19年(1614年)、かねてよりキリスト教に対して警戒していた徳川家康はキリシタン禁教令を出します。
それは秀吉のバテレン追放令よりも徹底したもので、あくまでもキリスト教の信仰にこだわった高山右近は、日本国外に追放を命じられてしまいます。
そして、長崎から家族とともに追放された内藤如安らと共に、フィリピンのマニラに送られる船に乗り日本を去ることになってしまったのです。
イエズス会の宣教師の間で評判になっていた高山右近は、現地で手厚い歓迎を受けますが、老齢な身と長い船旅の影響のせいか、マニラに到着してすぐに病にかかりわずか40日後に病没してしまったそうです。
権力に屈せずキリスト教の信仰を貫き通した高山右近は、2016年にその信仰心の厚さや徳を認められた者に贈られる「福者」としてローマ教皇に認定されました。
まとめ
- キリシタン大名の高山右近は、荒木村重・織田信長・豊臣秀吉・前田利家らに仕えた。
- 豊臣秀吉によるバテレン追放令の際、キリスト教の信仰を貫いて大名の地位を放棄する。
- 加賀の前田家に招かれ平穏に暮らしていたが、徳川家康の禁教令によってフィリピンのマニラに追放される。
- マニラでまもなく病没するが、熱心な信仰心は今なお高く評価されている。
さて、キリシタンの高山右近は千利休の弟子で茶人としても名をはせた人物で、同じく茶人として活躍した古田織部とは親しい間柄だったようです。
そんな茶人としての魅力がわかるアニメ「へうげもの」は無料で見ることもできます。
詳しくは下記の記事でご紹介していますので、気になった方はこちらも参考にしてみて下さい。
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