織田信長に仕えた有名な家臣といえば、多くがその武功によるところが多く、合戦での武勇伝を語られることが多いですよね。
しかし、実は織田信長の家臣は奉行などの吏僚の人材も豊富で、その一人が島田秀満という人物です。
大河ドラマなど織田信長が登場する作品でも全く登場しない島田秀満とは一体どんな人物だったのか、信長との関係や経歴をご紹介しながら解説しています。
目次
織田信長の家督相続時から仕えた島田秀満とは?
臣従 | 織田家 |
出生地 | 不明 |
生没年 | 不明 |
島田秀満は織田信長に古くから仕えていた家臣の一人で、1555年頃に佐久間信盛、村井貞勝、赤川景広と熱田社惣検校らに、礼銭についての紛争の処置を指示した書状が残っています。(田島氏文書)
このことからも、おそらく信長が家督を継いだ1551年にはすでに家臣として仕えていたと思われます。
ただ、この島田秀満は武将としてではなく吏僚(官僚・役人)として織田信長に仕えていました。
なお、出生地や生年も不明で、『兼見卿記』(吉田兼見の著書)の天正3年(1575年)4月11日条に記載があって以降は史料による記録はなく、いつ頃まで活躍していたのかもわかっていません。
島田秀満が村井貞勝と共に織田信長の奉行として活躍した経歴を紹介
島田秀満は、同じ様に織田信長に奉行として仕えた村井貞勝とともに、影で織田信長を支えた人物です。
さて、それでは島田秀満はどのような働きをしたのかご紹介していきましょう。
織田信長の弟・信行(信勝)との「稲生の戦い」後、仲裁役を務める
織田信秀の死後、織田信長と実の弟の信行(信勝)は家督相続を巡って対立するようになり、1556年には「稲生の戦い」という争いにまで発展してしまいます。
信長はこの戦いに勝利し、敗れた信行(信勝)は処刑されてもおかしくないところですが、母の土田御前の嘆願により、信長は信行を許すことにしました。
この時、土田御前が信長に許しを請う取次をしたのが島田秀満と村井貞勝でした。
「稲生の戦い」は織田家中を二分する争いだったわけですから、その結末を穏便に収めた島田秀満は双方から信頼される重臣だったことがわかりますね。
また、信長が美濃の攻略にあたり、美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)を織田方に引き入れる際、人質の受け取りの使者を務めます。
美濃を攻略するには、有力者だったこの三人衆を寝返らせることが重要なポイントで、使者として派遣された島田秀満はその重責を担える人物だったこともわかりますね。
なお、この「稲生の戦い」については下記の記事でその経緯などをご紹介していますので、こちらも併せて読んでみて下さい。
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村井貞勝と共に足利義昭を将軍として迎え、京都の奉行として活躍する
織田信長が足利義昭を将軍として迎え入れる際、島田秀満と村井貞勝がこの任にあたりました。
そして、その足利義昭を京都に上洛させるにあたり、御所として二条城を造営することになり、その普請奉行に村井貞勝とともに島田秀満が抜擢されました。
この二条城をわずか二ヶ月で完成させたといいますから、島田秀満と村井貞勝の采配ぶりの高さが伺えます。
その後も島田秀満は村井貞勝とともに、寺社との交渉など京都の奉行として活躍していたのです。
さて、島田秀満は奉行として村井貞勝と共に活動することが多々ありました。
島村秀満にとって、言わば相棒のような村井貞勝とはどんな人物だったのか下記の記事でご紹介していますので、こちらも併せて読んでみて下さい。
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織田信長の使者として将軍・足利義昭との間の交渉人としての経歴を紹介
島田秀満は京都で奉行として活動し、信長が将軍として擁立した足利義昭とも、そのパイプ役としても活動していました。
ところが、足利義昭は次第に織田信長と対立するようになり関係が崩れかけていた頃、信長は足利義昭に対し17か条の意見書を突きつけました。
その17か条の意見書を持って足利義昭のもとに使者として任されたのが島田秀満でした。
足利義昭はこの意見書に対し反感を抱き、対立を深めてついには武田信玄や石山本願寺などを巻き込んで「信長包囲網」を形成していきます。
そして足利義昭は二条城に立て籠もり徹底抗戦の構えを見せたため、それに対し信長は自分の娘を人質に差し出すことで和睦をしようと提案します。
その時、足利義昭に対して和睦の交渉にあたったのが村井貞勝と朝山日乗、そして島田秀満でした。
しかし、足利義昭は頑なにこれを拒んだ為、痺れを切らした信長は足利義昭の居城であった二条城を取り囲むように京都に火を放ったのでした。
こうした騒ぎに当時の正親町天皇が仲介に入り、一旦は和睦をして収まります。
しかし、その後は足利義昭は再び反旗を翻した為、信長は今度はこれを許さず足利義昭を追放し、ここに足利幕府は滅亡となったのです。
このように、島田秀満は織田信長と京都の足利義昭との間の交渉人としても活動しており、対立する者どうしの仲介役を務めていたわけですね。
まとめ
- 島田秀満は古くから織田信長の奉行として活躍した家臣の一人。
- 島田秀満は村井貞勝と共に京都で奉行として活躍していた。
- 京都では織田信長と将軍・足利義昭とのパイプ役として交渉にあたった。