引用:Wikipedia
織田信長から寵愛を受けた家臣と言うと、森蘭丸のことを思い浮かべる人は多いでしょう。
でも、森蘭丸が若くして織田信長の家臣となれたのも、ひとえにその父・森可成が家臣として織田信長から信頼されていたからに他なりません。
さて、その森蘭丸の父・森可成とは一体どんな人物だったのか、その逸話やエピソードからご紹介します。
目次
「攻めの三左」と呼ばれた槍の名手・森可成とはどんな人物か家系図から解説!
臣従 | 織田信長 |
出生地 | 美濃国葉栗郡蓮台 |
生没年 | 大永3年(1523年)~元亀元年(1570年) |
主な戦歴 | 天文23年(1554年)稲生の戦い(vs 織田信勝) |
永禄元年(1558年)浮野の戦い(vs 織田信賢) | |
永禄3年(1560年)桶狭間の戦い(vs 今川義元) | |
永禄8年~10年(1565年~67年)美濃攻略(vs 斎藤龍興) | |
永禄11年(1568年)京都上洛戦 | |
元亀元年(1570年)宇佐山城での戦い(vs 浅井・朝倉連合軍) |
織田信長の小姓として有名な森蘭丸の父親:妻・えいとの間には6男4女の子供
織田信長から寵愛を受けたと言われる森蘭丸(成利)は森可成の三男で、次男の森長可も「鬼武蔵」と呼ばれるほどの武勇を誇った信長の家臣でした。
この二人の兄弟も含め、森可成には6男4女の子宝に恵まれました。
戦国時代の武将であれば、そのくらい子供がいるのはざらにあることだと思うかもしれませんが、それは側室との間の子供も含めればそうかもしれません。
ところが、森可成の子供はすべて正室・えい(妙向尼)との間に生まれた子供なのです。
同じ妻との間にこれほど子を生んだのは、後述する前田利家とまつの間の2男9女に次ぐ多さです。
(1人の女性が生んだ子供の数では、伊達晴宗と久保姫の間にも11人の子供がいます)
元は美濃の土岐氏に仕えた経歴もあり、古くから織田信長に仕え始める
森可成はもともとは美濃の守護・土岐氏に仕えていましたが、その土岐氏が斎藤道三に美濃を乗っ取られたのをきっかけに織田信長に仕えるようになったと言われています。
定かではありませんが、一説には天文23年(1554年)頃には織田信長に仕えるようになったそうです。
この頃の織田信長は、まだ家督を継いで間もない時期で、実の弟・信勝(信行)と家督相続をめぐって「稲生の戦い」という争いを起こしています。
織田信長は当時はまだ「うつけ者」と呼ばれており、名だたる家臣が弟の信勝(信行)方に付く中、森可成は信長のもとで戦い大きな武功を上げ信長の勝利に大きく貢献しました。
その後も、尾張の国内では反信長勢力との戦いが続きます。
その筆頭格であったのが同じ一族の織田信友(彦五郎)で、そのを織田信友(彦五郎)清須城で討ち取ったのが森可成でした。
このように、森可成は尾張国内でもまだ立場の危うい状況にあった信長に一貫して仕えていたわけです。
さらに、その後も今川義元との「桶狭間の戦い」にも参戦し、その槍働きで大いに貢献し信長からも絶大な信頼を寄せられるようになったのです。
十文字槍や特徴的な兜で「攻めの三左」と呼ばれ武勇を誇る
ご紹介したように、合戦ではその活躍ぶりで織田信長から信頼を得ていた森長可は、その武具にとてもこだわりがあったようです。
愛用していた槍は関兼定(美濃の刀工)銘の十文字槍で、森可成のトレードマークにもなっており、この十文字槍で勇ましく戦場を駆ける勇姿から「攻めの三左」という異名がつけられました。(通称:三左衛門から)
また、上記の画像のとおり森可成の兜は、誰もが驚くほど特徴的ですよね。
これは釘をイメージしたものだとされ、相手を打ち抜くという意味が込められているそうです。
この兜をかぶって十文字槍を突きつけられたら、きっとどんな相手でもうろたえてしまうでしょうね。
森可成と前田利家にまつわるいい話を紹介!
無類の槍働きで武勇を誇った森可成ですが、一方では部下の者には優しい一面もあったようで、特に前田利家に対してはそうとう気にかけていたようです。
また、織田信長は子の森蘭丸を寵愛したように、その父・森可成に対しても特別な思いがあったようです。
それでは、これらの逸話やエピソードをご紹介していきましょう。
処罰されそうな前田利家を擁護した森可成
前田利家は若い頃から織田信長のもとに仕え、まるで弟のように可愛がられそうです。
ところが、前田利家は信長に処刑されてもおかしくない事件を起こしてしまいます。
それはどんな事件かというと、妻のまつからもらった笄を盗んだり度重なる侮辱をした拾阿弥(信長の同朋衆)を、信長の面前で殺害してしまったのです。(笄斬り)
拾阿弥も信長に可愛がられていた家臣の一人だった為、本来であれば前田利家は処刑されてもおかしくない罪を犯してしまったわけです。
しかし、それを見かねた森可成は、柴田勝家とともに前田利家の処罰を許してもらえるよう必死に信長を説得したのです。
その甲斐もあり、前田利家は以後出仕停止処分とはなりましたが、最悪の事態は免れることができました。
森可成が謹慎中の前田利家に手柄を上げさせたいい話
その後、美濃の斎藤家攻略の際に「森部の戦い」において、前田利家は「首切り足立」と恐れられた足立六兵衛を討ち取り、その手柄をもって信長に許されました。
この時、前田利家は森可成について参戦していたのですが、手柄を上げられたのも合戦上手な森可成のおかげだったと言われています。
どういう事かと言うと、斎藤家の砦攻略にあたり見方の兵は勇んで進軍する中、森可成は馬を降りてゆっくりと山に登りました。
手柄を上げたい前田利家も、早く山を登ろうと森可成を急かしますが、「敵の近くに行くまで体力を温存すべき」としてそのままゆっくりと進みました。
結果的に、疲れがみえた他の兵を一気に抜き去り砦に到着し、前田利家が一番やりの手柄を上げることができたわけです。
前田利家はこの恩を忘れず、森可成のことを「あれほど戦上手な人物はめったにいない」と語っています。
森可成の最期:その死亡が比叡山延暦寺焼き討ちにつながった?
森可成の最期:最後まで宇佐山城を守り抜く
「桶狭間の戦い」以後、織田信長は美濃攻略や足利義昭を将軍に擁立して京都を手中に収めるなど、どんどん勢力を拡大していきます。
それに伴い、美濃と京都の二国間の通行の安全確保する為に宇佐山城を築きますが、その城主として森可成を配置しました。
領土拡大を続ける織田信長は、元亀元年(1570年)から越前に攻め込み、朝倉義景と近江の浅井長政の連合軍と対立します。
同年8月から、織田信長を始めとする多くの武将は同じく対立関係にあった本願寺へと向かうと、浅井・朝倉連合軍はその隙きをついて森可成の守る宇佐山城へと攻めこんできました。
この進撃の報を受け、森可成は城を出て坂本でこの敵軍を撃退し追い返します。
その後、信長の弟・信治の援軍が到着しますが、一揆勢も加わり10倍以上の兵を率いた浅井・朝倉連合軍に包囲されてしまいます。
森可成は必死に抵抗しますが、あまりの兵力の差はどうにもできず、この戦いで討ち死にしてしまいました。
武藤五郎右衛門や肥田彦左衛門らの家臣は、森可成の死を無駄にはしまいと必死に防戦し、最後まで宇佐山城を守りきりました。
比叡山延暦寺焼き討ちの真相:森可成の死亡が引き金となった?
森可成の死を聞いた信長は、急遽援軍に向かいますが、信長進軍の報を聞いた浅井・朝倉連合軍は比叡山延暦寺へと逃げ込み籠城します。
この時、信長と浅井・朝倉連合軍との対決は朝廷の仲介もあり和睦となります。
その翌年の元亀2年(1571年)に、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしていますが、これは前年に森可成を失った怒りが発端だったとも言われています。
この時、多くの寺社は焼き討ちにされてしまいましたが、森可成の墓のある聖衆来迎寺だけは手出しされなかったそうです。
こうした逸話からも、信長がいかに森可成のことを信頼し気にかけていたがわかりますよね。
その子である森蘭丸や森長可が信長から寵愛を受けたのも、ひとえに父・森可成の功績によるところも大きかったのではないでしょうか。
まとめ
- 森可成は信長から寵愛を受けた森蘭丸の父親
- 十文字槍と特徴的な兜で古くから織田信長のもとで活躍し「攻めの三左」の異名を持つ。
- 処刑されそうな前田利家を擁護し、手柄を上げさせた戦上手な逸話が残る
- 宇佐山城で浅井・朝倉連合軍の攻撃を受け討ち死にすると、信長はその死に怒り比叡山延暦寺を焼き討ちしたとも言われる。
ちなみに、森可成の子供で次男の長可と三男の蘭丸については下記の記事でご紹介していますので、こちらもぜひ読んでみて下さい。
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