古代の日本における最大の内乱と言われる「壬申の乱」は、関係する人物は似たような名前が多く、しかも教科書ではその背景やきっかけが詳しく書かれておらず、覚えづらくてわからないという人も多いでしょう。
そこで、この「壬申の乱」が起こった背景やきっかけは何なのか、系図をもとに簡単にまとめましたので、歴史の勉強のお役に立てば嬉しいです。
目次
「壬申の乱」とは誰vs誰の戦いだったのか?その背景やきっかけを系図をもとに解説!
まずは古代における最大規模の内乱といわれる「壬申の乱」とはどんな争いだったのか、系図を見ながら簡単に解説していきます。
飛鳥時代最大の内乱「壬申の乱」とは誰と誰の戦いで勝利したのは誰か:系図から解説
「壬申の乱」は672年に起こった飛鳥時代最大の内乱と言われています。
その理由は、上の系図からもわかるとおり、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)と、天智天皇の子供である大友皇子(おおとものみこ)による皇位継承をめぐる争いで、その時に動員された兵はそれぞれ数万人の規模にのぼったとされているからです。
「壬申の乱」は671年12月に天智天皇が崩御したのち、翌672年6月に大海人皇子が挙兵してから、同年7月までの約一ヶ月間にわたり戦いが繰り広げられました。
672年7月22日に琵琶湖畔の瀬田川にかかる橋の戦いで大友皇子軍が敗退すると、翌23日に大友皇子が自害したことでこの「壬申の乱」は幕を下ろします。
この「壬申の乱」で勝利した大海人皇子は、第40代天武天皇として即位します。
なお、天智天皇が崩御した671年12月から672年7月までは大友皇子が天皇として即位していたと考えられますが、当時は天皇として認められていなかったようで、明治時代になってから第39代弘文天皇として歴代天皇として数えられるようにりました。
「壬申の乱」が起こった背景やきっかけを簡単に解説
それではなぜこれほど大規模な内乱が起きてしまったかというと、そのきっかけは天智天皇が皇位継承についてのルールを破ったことが挙げられます。
もともと668年に天智天皇が即位した時点で、後継者は弟の大海人皇子と決まっていました。
当時の慣例で、天皇の長男であっても側室の血を引く大友皇子よりも、皇后の血を引く大海人皇子の方が優先されるというルールができていたのです。
ところが、3年後の671年には自分の子供である大友皇子を最高位の太政大臣に任命してしまいます。
これは本来のルールを破り、事実上後継者を大友皇子に変えてしまったことを意味します。
その後、天智天皇は病に倒れ、病床に弟の大海人皇子を呼びよせると、今度は大海人皇子に皇位継承権を授けると言い出しました。
しかし大海人皇子は、同様のやり方で排除されてしまった有間皇子のことが頭をよぎり、「うかつに引き受けると謀反の罪を着せられてしまうかもしれない」と警戒し、天智天皇の申し出を断って奈良県の吉野に出家してしまいました。
やがて天智天皇が崩御すると、子供である大友皇子は実権を握りますが、次第に叔父の大海人皇子の存在が邪魔だと考えるようになります。
そして、ついに大友皇子は叔父の大海人皇子を排除するために兵を集め始めたのです。
これを聞きつけた大海人皇子は、身の危険を感じた為、大友皇子を返り討ちにしようと挙兵しました。
天智天皇の時代から国内の政治運営に不満を抱いていた人も多かったこともあり、大海人皇子に加勢する人が続々と集まります。
こうして、天智天皇の政治に対する不満の高まりを背景に、後継者をめぐる皇位継承権争いがきっかけとなって、古代における最大の内乱「壬申の乱」が勃発したのです。
簡単にまとめると下記のとおりです。
「壬申の乱」が起こった背景やきっかけのまとめ
- 天智天皇の後継者は弟の大海人皇子と決まっていた。
- 天智天皇はルールを破り、子供の大友皇子を後継者にした。
- 再び天智天皇は弟の大海人皇子を後継者にすると言う。
- その言葉を警戒した大海人皇子は、それを断り奈良の吉野へ出家してしまう。
- 天智天皇の崩御後、大友皇子が天皇に即位する(定かではない)。
- 大友皇子は出家した大海人皇子が邪魔だと考え、排除に乗り出す。
- それに反応した大海人皇子は、不満を抱く仲間を集め挙兵した。
「壬申の乱」の原因でもある「白村江の戦い」の日本への影響について簡単に解説!
「壬申の乱」が起こった背景には、国内の人々の天智天皇への不満が原因のひとつでもあります。その原因は、663年に起こった「白村江の戦い」も大きく影響しています。
663年に起こった「白村江の戦い」とはどんな戦いなのか簡単に解説
「壬申の乱」が勃発する約10年ほど前の660年に、唐(中国)の支援を受けた新羅によって百済は滅ぼされてしまいます。
もともと日本と友好関係にあった百済の人々は、再興の為に日本に援軍を求めてきました。
この百済からの要請を受けて、天智天皇(この時はまだ中大兄皇子)は阿倍比羅夫(あべのひらふ)らを中心として百済に援軍を送りますが、待ち構えていた唐・新羅の連合軍と激しい戦いになります。
663年に起こったこの戦いがいわゆる「白村江の戦い」で、日本は甚大な被害を受けて敗北してしまいます。
一言で言うと「白村江の戦い」は、友好関係にあった百済を救済する為に朝鮮半島へ出兵した戦い(敗退)です。
「白村江の戦い」のその後対応と日本への影響について簡単に解説
この「白村江の戦い」以後、朝鮮半島を統一した新羅と唐の連合軍が日本に侵攻してくるのを怖れた天智天皇は、九州の太宰府に大野城を築き、水城と呼ばれる防衛設備を整え、海岸線には防人(さきもり)と呼ばれる守備兵を配置しました。
こうした防衛拠点は各地で造られ、多くの人が防人として徴用されるようになります。
また、百済からの難民が当時の日本の都の近江に大勢流れてきたことで、日本国内の住民も大変困惑していたようです。
もともと百済国内でも内紛や分裂状態にあったところ、その百済を救済に行って敗退し、挙げ句に防衛の為に労力を割かれ生活を圧迫される事態になったのですから、日本の国民にとっては不満が募るのは当然です。
それに加えて、中央集権化を推し進めようとする天智天皇の独断的な政治にも不満を抱く人が増えていました。
こうした要素も重なって、「白村江の戦い」以降は天智天皇に対する反感がさらに高まったという影響がありました。
簡単にまとめると下記のとおりです。
「白村江の戦い」のその後の対応と日本国内への影響まとめ
- 九州の太宰府に防衛設備の大野城や水城を築く。
- 各地に守備兵の防人を配備
- 防衛の為の労力を強いられる【不満・反感】
- 百済の難民が押し寄せる【不満・反感】
- 天智天皇の政治に対する反感が高まる【不満・反感】
「壬申の乱」の背景やきっかけ:「白村江の戦い」との関係のまとめ
「壬申の乱」とはどんなものか:なぜが起こったのか理由となる背景やきっかけ
- 天智天皇の後継者をめぐる混乱(ルール破り)
- 大海人皇子(弟)vs大友皇子(子供)
- 天智天皇時代からの政治に不満を持つ人々も参戦
- 672年:古代で最大級の内乱に発展
- 勝利した大海人皇子は天武天皇として即位
「白村江の戦い」とはどんなものか:日本への影響や「壬申の乱」との関係
- 新羅と唐連合に滅ぼされた百済からの復興救援要請
- 朝鮮半島の出兵するも白村江で敗退
- 新羅・唐連合の日本への進出を警戒し、防衛の為に大野城や水城を築き防人を配備
- 防衛の為に労力を強いられる、百済からの難民対応など不満が募る
- 天智天皇の政治に対する反感や不満が拡大する
いかがでしたでしょうか。
「壬申の乱」をまとめると、古代においては皇位継承をめぐる争いがとても激しいものだったことがわかりますね。
さて、この「壬申の乱」の大きな原因を生んでしまった天智天皇は、即位前は「大化の改新」や「乙巳の変」で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。
この中大兄皇子が権力を手に入れるきっかけの「乙巳の変」についてもご紹介しています。
併せて読んでもらえると、より日本の古代の歴史を知ることができると思いますよ。
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