戦国時代は各地の武将の台頭により、足利将軍家の権威は地に堕ちていました。
しかし、13代将軍・足利義輝は「剣豪将軍」の異名を持ち、そんな状況を打破しようとした人物です。
この記事では、将軍・足利義輝の剣豪伝説とその生涯についてご紹介しています。
目次
「剣豪将軍」と呼ばれた第13代将軍・足利義輝とはどんな人物か解説!
天文5年(1536年)、足利義輝は第12代将軍の足利義晴の嫡男として生まれます。
のちに「剣豪将軍」とも呼ばれた足利義輝はどんな人物だったのか解説していきます。
足利義輝が「剣豪将軍」と呼ばれた理由を解説
足利義輝は、当時「剣聖」とも呼ばれていた剣豪の塚原卜伝の剣術指導を受けたと言われしかも奥義である「一之太刀」を伝授されています。
この奥義を伝授されたのは、同じく剣豪と呼ばれた北畠具教以外に他にいません。
また、詳しいことは後述しますが、「永禄の変」での凄まじい強さを見せたという伝説から、足利義輝は「剣豪将軍」と呼ばれるようになったのです。
失墜していた幕府の権威を回復し、将軍として自ら政権運営をしようとした
1478年の応仁の乱以降、乱世の戦国時代へと突入すると、室町幕府の足利将軍家の権威は失墜し、京の都や畿内の実権は永いこと管領の細川氏が握っている状態で、第12代将軍・足利義晴の時代も管領の細川晴元が実権を握っていました。
自分が健在のうちに将軍職を譲ろうと考えた足利義晴は、天文15年(1546年)わずか11歳の義輝を第13代将軍に就任させます。
その後、細川晴元の家臣であった三好長慶が実権を握りだすと、なんと足利義晴・義輝親子は細川晴元とともに京都から追放されてしまいました。
幼くして将軍に就任し、配下の三好長慶によって憂き目にあった足利義輝は、失墜した権威を取り戻し自らが実権を握ることを心に決めます。
畿内の覇権をめぐって三好長慶と戦い続けた
京都を追われた足利義輝ですが、いったんは三好長慶と和睦をするものの、その後も京や畿内の覇権をめぐって争いを繰り返します。
三好長慶に対抗する為、足利義輝は各地の戦国大名に自分の名前の一文字(偏諱)を授けたり、大名どうしの争いの仲裁に入るなどして、将軍としての権威回復を図りました。
ちなみに足利義輝は、武田信玄と上杉謙信との間の仲裁や、織田信秀と今川義元の争いの調停なども行っています。
しかしながら、松永久秀ら有力な家臣を率いた三好長慶の支配体制を崩すことはできず、足利義輝は再び京を追われてしまいます。
その後、再度三好長慶と和睦をして京の都に戻り反撃の機会を伺っていると、宿敵の三好長慶が病に倒れ急死したのです。
これを絶好の機会と考えた足利義輝は、幕府・将軍の権威を回復を目指して動き出します。
ちなみに足利義輝と対立し、畿内を支配していた三好長慶については、下記の記事でご紹介していますので、こちらも参考にしてみて下さい。
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「永禄の変」で三好三人衆によって暗殺された時の最期の辞世の句を紹介!
足利義輝が三好三人衆に暗殺された「永禄の変」の経緯を解説
三好長慶の死によって、足利義輝は幕府再興・将軍親政を目指して動き始めます。
ところが三好長慶の亡き後、三好家を牛耳っていた松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)は、こうした動きをみせる足利義輝は邪魔な存在でした。
永禄8年(1565年)の5月、こうした状況の中、松永久秀の長男・久通と三好三人衆は清水寺に参拝に行くと偽り、約1万の軍勢を率いて足利義輝の居る二条御所を襲撃したのです。
この時、足利義輝は奮戦して戦い抜くものの、圧倒的な数の兵にはどうすることも出来ず、ついに命運が尽きてしまいました。
このクーデター事件は「永禄の変」と呼ばれ、三好長慶の重臣であった松永久秀が主導したものだと考えられていました。
「戦国三大梟雄」の一人とも呼ばれた松永久秀は、はたして本当に事件の首謀者だったのでしょうか?それについては下記の記事でご紹介していますので、興味のある人はこちらも読んでみて下さい。
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「永禄の変」での足利義輝の剣豪伝説と最期を迎えた辞世の句を紹介
松永久通と三好三人衆が引き連れた大軍に囲まれると、足利義輝は「もはやこれまで」と悟り、その場に居合わせた数十人の家臣とともに盃を交わして別れると、自ら薙刀を持ち打って出ました。
そして将軍家に伝わる名刀の数々を畳に刺しておき、斬り合って刃こぼれするとすぐに刀を取りかえて、向かってくる敵を次々と斬り倒していったのです。
あまりの強さに驚いた相手は、正攻法で挑んでも敵わないと思い、畳を盾の代わりに持ちながら四方八方から一斉に飛びかかってきたのです。
「剣豪将軍」の異名を持つとおり、足利義輝は最期にその力を見せつけますが、こうなっては流石にどうすることも出来ませんでした。
享年30歳。将軍の権威回復に人生を捧げましたが、志半ばで短い生涯を閉じました。
五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで
この五月雨は雨なのか涙なのか・・不如帰よ、どうか私の名前を天高く広めてくれ
足利義輝は家臣と盃を交わした際にこの歌を詠んだとされ、これが辞世の句となりました。
将軍の復権に尽力してきましたが、志半ばで死を迎えることの無念さが滲み出て伝わってきます。
大河ドラマ「麒麟がくる」で向井理演じる将軍足利義輝の見どころ
大河ドラマ「麒麟がくる」では、向井理が将軍足利義輝を演じていますね。
主人公の長谷川博己演じる明智光秀と対面するシーンもあり、そこでは将軍としての力を発揮出来ずにいる境遇を憂いている様子でした。
今後は将軍復権に向けて、山路和弘演じる三好長慶と対峙する場面もあるかもしれません。
また、ご紹介したように、足利義輝は「剣豪伝説」として語られるほどの華々しい最期を迎えるわけですが、はたしてどのような演出で描かれるのかも見どころですね。
さて、このブログでは他にも大河ドラマ「麒麟がくる」の時代背景を取り上げた記事を掲載しています。
登場人物の関係性など、ドラマでは描ききれなかった裏側についても書いていますので、さらに深く楽しみたいと思った人はこちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。
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