徳川家康は幼少期に人質として今川義元のもとで暮らしていました。
そんな人質の徳川家康に対し、今川義元は「むごい教育」をしろと家臣に命じます。
さてその「むごい教育」とはいったいどんな教育なのか?
また、そんな教育をしむけた今川義元は「海道一の弓取り」と呼ばれていましたが、いったいどんな人物だったのか解説しています。
今川義元による人質・徳川家康への「むごい教育」のエピソードを解説!
なぜ徳川家康は今川義元の人質になっていたか解説
徳川家康は三河国の岡崎を拠点とする松平家に生まれます。「徳川家康」というのは後年の名前で、元服後は「松平元康」という名前でしたが、ここではわかりやすく「徳川家康」で統一します。
松平家は家康の祖父・清康の代で三河を支配するまでになりますが、その清康が家臣に暗殺されてしまうと、松平家は混乱状態に陥ります。
そうした家中が荒れている中で当主となった家康の父・広忠は、駿河の今川義元へ助けを求め、今川家の庇護を受けるようになります。
そうした背景から、松平家が今川家に従うことを示す為に、家康は人質として今川家に送られたのです。
今川義元が家臣に命じた徳川家康への「むごい教育」のエピソードを紹介
今川義元は松平家の人質である家康を育てるにあたり、家臣に対して「むごい教育」をするように命じたといいます。
それを受けた家臣は、家康に対して粗末な食事しか与えず、朝から晩まで休み無く武術や力仕事をさせました。
なるほど、幼い子供の家康にそのような教育をすることは、確かに「むごい教育」だと思いますよね。
ところが、家臣がこうした教育を家康にしているということを聞いた今川義元は激怒したといいます。
言いつけ通りにしたはずなのに、なぜ今川義元は怒ったのか?それは今川義元が言った家臣に対する言葉からわかります。
「人質の家康には好きなだけご馳走を与えよ。寝たいと言ったらいくらでも寝かせてやれ。夏は涼しく、冬は暖かくしてやれ。学問が嫌だというなら一切させなくて構わない」
その言葉に耳を疑った家臣達は、最初に言っていた「むごい教育」とは正反対の命令に首をかしげます。すると今川義元は続けてこう言いました。
「そのようにすれば、たいていの人間はダメになるからだ」
つまり、「むごい教育」とは人間をダメにする甘やかした教育のことだというわけです。
ただ、実際には厳しい人質生活を送り、今川義元の名軍師と言われる太原雪斎に叩き込まれたことで、やがて天下人へと大成する人格が形成されたのではないかと思われます。
この「むごい教育」のエピソードは、徳川家康が天下を治めた後に「もし人質時代にそんな教育をされていたら、違った歴史になっていたのでは?」という、歴史のIFがそのまま伝わったものではないでしょうか。
いずれにしても、この今川義元が命じたという「むごい教育」の逸話は、小さいお子さんを育てる時の教訓として、今でも小学校などで広く語り継がれています。
今川義元が「海道一の弓取り」と呼ばれた理由や由来を解説!
さて、今川義元というと「桶狭間の戦い」で、大軍を率いていたにもかかわらず、圧倒的に少ない兵の織田信長に敗れてしまった「愚かな武将」というイメージが少なからずあります。
しかも、お歯黒で化粧をしており、まるで公家のようないでたちで、馬にも乗れないほど太っていたという、武将としてはあるまじき姿として描かれることが多々あります。
このように、今川義元はあまりにもマイナスイメージが強く、織田信長の引き立て役として扱われがちです。
しかし、実際には駿河を大きな都市に育て上げ「海道一の弓取り」と呼ばれるほどの実力者でした。
それでは「海道一の弓取り」と呼ばれた理由である、今川義元の本当は優れていた戦国大名としての領地経営について解説していきます。
「海道一の弓取り」とはどういう意味か解説
まず「海道一」とは東海地域のことを指し、現在の静岡県から愛知県のあたりを領土に持つ戦国大名としては、ずば抜けた存在であったことを物語っています。
「弓取り」というのは、弓矢で戦う武士の意味が転じて国持大名・戦国大名のことを指します。
つまり、今川義元は東海地域で圧倒的な存在感を持った戦国大名であったということを意味しているわけですね。
今川義元が「海道一の弓取り」と呼ばれた大きな理由は領国経営と経済政策
今川義元が「海道一の弓取り」と呼ばれた理由は、その優れた領国経営と経済政策によって駿河を発展させたことが大きな要因です。
まず領国経営の観点から言うと、独自の法体系である「今川仮名目録」を改定して運用を強化したことや、「寄り親・寄り子」という組織制度を採用することで農民から直属の家臣まで「組織の一員」であるという意識を高めました。
これらの施策により、領国内の秩序が保たれ領民も一体となることで、駿河の大きな発展に繋がりました。
次に経済政策の観点から言うと、商人を登用して港の整備をして商品や貨幣の流通を促して商業を活性化させたことや、検地を行うことで年貢の増収につなげたことが挙げられます。
これらの政策により経済的に潤い、圧倒的な経済力を手にすることができたのです。
今川義元が「海道一の弓取り」と呼ばれた理由
- 優れた領国経営
「今川仮名目録」の改定・運用、「寄り親・寄り子」制度 - 経済政策
商人登用による商業活性化、検地による年貢増収
大河ドラマ「麒麟がくる」で描かれる今川義元の見どころ
「このドラマの今川義元は勇敢な武将として描かれています。もしかすると、天下を取ってしまうのではないかというくらいの勢いがある。そんな義元にとって欠かせないのが太原雪斎。伊吹吾郎さんが演じる雪斎の存在感と迫力はすごくて、まさに本物が来た!という感じです」(片岡愛之助)#麒麟がくる pic.twitter.com/x4LvrY0q2Z
— 【公式】大河ドラマ「麒麟がくる」毎週日曜放送 (@nhk_kirin) March 8, 2020
令和2年(2020年)の大河ドラマ「麒麟がくる」では、今川義元役を片岡愛之助が演じています。
従来の今川義元像は、化粧をして貴族のようないでたちの異色の戦国大名として描かれることが多々ありました。
しかし「麒麟がくる」ではそれとは異なり、本来の「海道一の弓取り」と呼ばれる実力者としての今川義元が描かれているようです。
今後、染谷将太演じる織田信長とどのように対峙し、もっとも有名にして従来の今川義元のイメージを決定づけた「桶狭間の戦い」はどのように描かれるのか、これが大きな見どころと言えますね。
さて、主人公である明智光秀も、従来は「裏切り者」のイメージがあまりに強くネガティブな印象を持つ人も多いと思いますが、ドラマを通じてそのイメージは変わってきているのではないでしょうか。
戦国武将には誇張された逸話やエピソードが数多くあり、そのイメージが刷り込まれて固定観念を持たれやすいと思います。
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主人公の長谷川博己演じる明智光秀しかり、従来の固定観念を覆すという意味でも、大河ドラマ「麒麟がくる」は見どころがたくさんありますね。
おまけ
発掘調査・資料の発見のほか研究によって歴史認識が変わり、それによって教科書の内容もけっこう変わってきています。
学生のお子さんを持つお父さんお母さんは、自分たちが習ったことと違うことがけっこうありますので、下記の記事などを参考にお子さんが学校でどんな事を習っているのか知っておくのもいいと思いますよ。
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登場人物の関係性など、ドラマでは描ききれなかった裏側についても書いていますので、さらに深く楽しみたいと思った人はこちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。
↓大河ドラマ「麒麟がくる」にまつわる特集はコチラ↓
また、「麒麟がくる」をより楽しむ為に明智光秀が主人公の漫画やドラマ・アニメ作品をまとめましたので、様々な角度から明智光秀という人物を知ると面白いと思います。
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