引用:Wikipedia
滝川一益は織田信長の家臣として、明智光秀・羽柴秀吉(豊臣秀吉)・柴田勝家・丹羽長秀といった面々と同列に扱われる重臣です。
その活躍ぶりは目覚ましく、「進むも滝川、退ひくも滝川」と称賛を込めた異名がつけられるほどでした。
しかしながら、その活躍ぶりは意外と知られていないのではないでしょうか?
この記事では、そんな滝川一益の主な戦歴をまとめています。
目次
織田信長の家臣・滝川一益とはどんな人物か簡単に解説!
滝川一益は近江国甲賀郡の出身で、一説には諸国を放浪していた際に鉄砲の腕前を買われて織田信長の家臣になったと言われています。
仕え始めたのは信長がまだ家督を継いで間もない頃とされていて、多くの家臣の中でも古参の家臣のひとりです。
滝川一益は数多くの合戦に参戦し、そのただならぬ働きぶりや出身地が甲賀ということもあり、「滝川一益は忍者だった」とも噂されるほどでした。
信長の家臣団の中でも、明智光秀・羽柴秀吉(豊臣秀吉)・柴田勝家・丹羽長秀らと同列の重臣の中の重臣といえる存在です。
このように、信長の家臣の中でも大きな活躍をした滝川一益には様々な逸話やエピソードがありますが、それらは下記の記事でまとめてご紹介していますので、滝川一益という人物を知る上でもぜひ読んでみて下さい。
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伊勢攻略や甲州征伐などの戦歴や関東管領の経歴を解説!
滝川一益の主な戦歴
永禄10年~12年(1567年~69年) | 伊勢攻略(vs北畠家) |
元亀元年~天正2年(1570年~74年) | 長島一向一揆 |
天正3年(1575年) | 長篠の戦い(vs武田家) |
〃 | 越前一向一揆 |
天正4年(1576年) | 天王寺の戦い(vs石山本願寺) |
天正5年(1577年) | 紀州攻略(vs雑賀衆) |
天正6年~7年(1578年~79年) | 有岡城の戦い(vs荒木村重) |
天正9年(1581年) | 伊賀攻略 |
天正10年(1582年) | 甲州征伐(vs武田家) |
それでは滝川一益がどのような活躍をしたのか、主な戦歴をご紹介していきましょう。
伊勢の北畠氏を攻略:長島の一向一揆を平定
織田信長は永禄3年(1560年)に駿河の今川義元を「桶狭間の戦い」で破ると、隣接する美濃の攻略に乗り出すなど、尾張から領土拡大に舵をきります。
そうした状況の中、永禄10年(1567年)に滝川一益は大将として北伊勢に派遣され、その地域の有力氏族を服属させ麾下に置き、伊勢の抑えの要として任されることになります。
その後、織田信長はこの北伊勢の有力視族の神戸氏や長野工藤氏などと姻戚関係を結んで実質的に支配下に置きますが、これは裏で滝川一益の働きがあったとも言われています。
永禄12年(1569年)になると、当時伊勢国で最大の勢力を誇っていた北畠具教の弟・木造具政が信長と通じるようになると、これ機に滝川一益は北畠家へ攻撃を開始しました。
一時は北畠軍に敗れたものの、その後織田信長軍が総力をあげて約8万の大軍で大河内城を取り囲むと、約2ヶ月の籠城の末に北畠具教は降伏し開城しました。
こうして伊勢国を平定すると、滝川一益は安濃津・渋見・小造の三城を守備することを任されました。
その後、滝川一益は伊勢の長島一向一揆を平定すると、その功績を称えられ北伊勢の大半の領地を与えられ長島城の城主に任命されます。
長篠の戦いや石山本願寺との戦いなど各地を転戦する
伊勢の平定から一段落すると、元亀3年(1572年)頃から滝川一益は遊撃軍の軍団長として各地を転戦するようになります。
天正3年(1575年)には、鉄砲隊によって武田騎馬隊を撃破した「長篠の戦い」にも参戦し、越前一向一揆の討伐、石山本願寺との「天王寺の戦い」、紀州の雑賀衆攻略などあらゆる合戦に参戦していました。
有力な遊撃軍として滝川一益の戦場は北陸から紀州まで広範囲に渡っていたわけです。
その活動範囲の広さを考えれば、忍者かもしれないと思うのも不思議ではありませんね。
甲州征伐で武田家を滅亡に追いやり関東管領となる
各地を転戦していた滝川一益は、天正10年(1582年)に信長の嫡男・信忠軍の副主将格として武田攻め甲州征伐に従軍します。
そして、滝川一益は武田勝頼を甲斐田野に追い詰め自害に追い込み、信長の宿願であった武田家滅亡を成し遂げ、家中で最大級の手柄を挙げました。
これにより、滝川一益には上野国と信濃2郡が与えられ、関東の警護を任される「関東管領」の役職に任命されます。
なお、この「関東管領」として与えられた役割は大きく分けて下記の3つです。
- 上野を中心に関東の大名を信長の下に組織すること。
- 同盟者であった北条氏との外交にに務め、さらにはこれを従属させること。
- 伊達氏や芦名氏など奥羽の大名をも従わせること。
ただ、この時滝川一益は58歳と高齢になっており、関東から東北までを統治するにはかなりの重荷だと感じていたようで、『信長公記』にも当時の滝川一益の思いの内が記されています。
「本能寺の変」で一変した滝川一益の状況:清須会議やその後について解説!
さて甲州征伐後に旧武田家の領地を統治することになった滝川一益ですが、その直後に起きた「本能寺の変」によって状況が一変してしまいます。
それでは「本能寺の変」の後に滝川一益の身に起きたことをご紹介していきましょう。
北条氏との対立「神流川の戦い」
天正10年(1582年)6月2日に織田信長が「本能寺の変」で横死すると、その報は各地へと広まり翌週には滝川一益のいる関東にまで届きます。
それまで同盟関係にあった北条家の当主・氏政は、滝川一益に対し引き続き強調関係を維持するとしていましたが、織田信長の死が確実とみるや上野国に侵攻してきました。
それに対し、滝川一益もわずかな手勢を率いて神流川で戦いとなり、初戦は北条氏邦の軍を破って勝利するものの、翌日には北条氏直と再び戦いとなりました。
この時、当初の予定では在郷の上州衆が味方となって戦うはずでしたが、この上州衆に戦意はなく進軍してきませんでした。
これにより滝川一益はこの「神流川の戦い」で大敗してしまった為、関東の地を離れて本領であった長島へと戻ることにしたのでした。
関東管領として赴任してわずか3ヶ月ほどで「本能寺の変」が起きてしまい、滝川一益もなすすべもなかったでしょう。
なお、同じく甲州征伐に参戦し、武田家滅亡後に甲斐一国を与えられた河尻秀隆は、「本能寺の変」の後に悲惨な運命をたどっています。
この河尻秀隆の悲しい最期については下記の記事でご紹介していますので、こちらも併せて読んでみて下さい。
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信長の後継者を決める「清須会議」に出席できず
「本能寺の変」のあと、6月27日に織田家の家督相続をめぐる「清須会議」が行われました。
この会議には羽柴秀吉(豊臣秀吉)や柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興らが参加し、結果的に信長の孫でまだ幼児だった三法師が家督を継ぐことになり、その後見人となった羽柴秀吉がやがて織田家を牛耳るようになったわけですね。
この時、滝川一益は「神流川の戦い」で北条氏と戦い、敗れて上野国から伊勢の長島へ戻る途中であった為、「清須会議」には参加できませんでした。
この「清須会議」では今後の織田家の人事や領地の分配なども決められ、会議に参加できなかった滝川一益は宿老の地位も外れてしまいました。
さらに、せっかく甲州征伐で与えられた関東の地も徳川家康のものとなってしまい、代わりとなる領土は与えらなかった為、滝川一益にとってはかなり不満のある内容でした。
ちなみに、この「清須会議」は三谷幸喜さんの脚本で映画化もされていて、この作品の中で滝川一益は「清須会議」に参加しようとひたすら走っています。笑
こちらから無料で見ることもできますので、興味のある方はぜひ視聴してみて下さい。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立するも敗れて隠居の身に
「清須会議」で、織田家の家督を継いだ三法師の後見人となった羽柴秀吉は、まるで織田家を乗っ取ったかのような振る舞いをするようになります。
これに対し、柴田勝家は秀吉に対して対立を深めるようになると、「清須会議」での決定に不満を抱いていた滝川一益もこれに呼応します。
やがて両者の対立が決定的になると、滝川一益は長島で秀吉方の諸城に攻め込み、賤ヶ岳で秀吉と対立する柴田勝家を間接的に援護しました。
しかし、この「賤ヶ岳の戦い」で敗れた柴田勝家が自害してしまうと、孤立した滝川一益はやむなく籠城していた城を明け渡し降伏したのでした。
敗れた滝川一益は秀吉に所領を全て没収され、その後は出家し丹羽長秀をたよって越前で隠居することになりました。
その後、今度は徳川家康が信長の次男・信雄を擁立して秀吉と対立し「小牧長久手」の戦いが起こると、秀吉は隠居していた滝川一益を呼び戻し秀吉方に引き入れました。
この戦いで、滝川一益は尾張赴き蟹江城を奪いますが、徳川家康から攻撃を受け開城し伊勢に退いています。
その後は越前で隠居生活を送り、天正14年に62歳で亡くなっています。
古くから織田信長に仕え、各地を転戦して織田信長の勢力拡大とともに活躍の場を広げていた滝川一益ですが、信長の死とともにその人生は狂い始め、晩年は砂を噛むような思いをしていたことでしょう。
「本能寺の変が無ければ・・・」と、きっと悔しい思いをしていたことでしょうね。
まとめ
- 織田信長の家臣・滝川一益は、信長が「天下布武」を掲げた頃に北畠家の伊勢を攻略する。
- 遊撃軍を率いて「長篠の戦い」など各地を転戦し、次々と武功をあげる。
- 甲州征伐で武田勝頼を追い込み、家中でも最大級の手柄を上げる。
- 上野国を与えられ関東管領となるも、「本能寺の変」により北条氏に攻め込まれ敗走する。
- 「清須会議」に参加できず待遇に不満を抱き秀吉と対立するが、敗れてしまった為一旦は出家して隠居の身に。
- 「小牧長久手の戦い」で秀吉から呼び戻されるも、徳川家康に敗れ、以降は越前で隠居の身となり生涯を閉じる。