令和2年(2020年)の大河ドラマ「麒麟がくる」で、本木雅弘演じる「美濃のマムシ」こと斎藤道三はクセが強くてすごく興味深い人物ですね。
そんな斎藤道三と義理の息子にあたる織田信長の初めての会見は、今なお語り草になっている伝説的なエピソードです。
この記事では、そんな強烈な個性を持った二人の初めての会見にまつわるエピソードを紹介しています。
目次
斎藤道三と織田信長の関係を家系図から簡単に解説!
まずは斎藤道三と織田信長の関係性を簡単にご紹介しておきます。
斎藤道三と織田信長は義理の親子の関係:家系図から解説
斎藤道三と小見の方との間に生まれた娘の帰蝶と、一時は敵対関係にあった織田信秀の息子の信長が結婚します。
二人が結婚したのは天文18年(1549年)で、織田信長は当時16歳、帰朝は当時15歳であったとされています。
この二人の結婚は、勢力を拡大しつつあった駿河の今川義元の対抗策として、思惑が一致した斎藤道三と織田信秀が手を結ぶ為の政略結婚だったという見方が一般的です。
織田信長と帰蝶(斎藤道三の娘)との夫婦関係について解説
織田信長と帰蝶の結婚は、両親による政略結婚であったとされており、また、二人の間にまつわる記録もほとんど残っていないことから、仲がよかったのかどうかは謎に包まれています。
織田信長はその後数多くの側室を娶って子供を授かっているなか、正室である帰蝶との間には子供はいません。
こうしたことから、帰蝶は正室ではあるものの、それは形式的ものであって二人の夫婦仲は良くなかったのではないか、という見方が多いです。
ただ、織田信長の娘についての記録は曖昧なものが多く、もしかすると帰蝶との間に娘はいたのかもしれません。
いずれにしても、織田信長に嫁いでからの帰蝶がどうなったのかはよくわからず、その最期も謎に包まれています。
はたして大河ドラマ「麒麟がくる」では、織田信長と帰蝶の関係性がいったいどのように描かれるかも見ものですね。
斎藤道三と織田信長の正徳寺(聖徳寺)での初めての会見のエピソードを紹介!
織田信長と帰蝶が結婚したとはいえ、その父である斎藤道三と織田信長はしばらくの間一度も顔を合わせたことはありませんでした。
二人の結婚から約4年後の天文22年(1553年)に初めて顔を合わせることになりました。
斎藤道三と織田信長の初会見の場所は愛知県一宮市富田の正德時(聖徳寺)
織田信長と帰蝶が結婚してのち、天文22年(1553年)の4月にようやく織田信長と斎藤道三の義理の親子による会見が実現します。
その初会見の場所となったのは、現在の愛知県一宮市富田にある正徳寺(聖徳寺)でした。
この場所は美濃の斎藤家と尾張の織田家の中間に位置する場所で、いわばお互いに対等な立場で会見に臨んだと見て取れます。
なおこの正徳寺は現在は残っておらず、そこには記念碑が残されているだけです。
斎藤道三と織田信長の会見の時のエピソードを紹介
この正徳寺での斎藤道三と織田信長の初会見は、のちの織田信長の活躍を占う意味で象徴的なエピソードのひとつです。
斎藤道三は会見を前に、正徳寺にやってくる織田信長の一行を民家に隠れてこっそりのぞいていました。
その時に斎藤道三が目にした織田信長の格好は、とてもこれから大事な人と会うとは思えないような酷いいでたちであったそうです。
それはまさしく「うつけ者」と言われるのがよくわかるものだったとか。
それに対して斎藤道三は、娘婿に格の違いを見せつけガツンと言おうと礼儀正しい正装で会見に臨みます。
この時、もし織田信長が噂とおりの単なる「うつけ者」であったなら、その場で殺害してしまうことも考えていた、という噂話もあります。
とっころが、そんな思惑を抱いて待っていた斎藤道三の前に現れたのは、最上級に礼儀正しい長裃(ながかみしも)に身を包んだ織田信長でした。
そのあまりにも立派な姿に斎藤道三は度肝をぬかれてしまいました。
この見事なまでの織田信長の演出に、斎藤道三はすっかり気に入ったようで、それは会見後の家臣とのやりとりにも現れています。
斎藤道三が家臣に織田信長のことをどう思ったか尋ねると「やはりたわけ者ですね」と言うと、斎藤道三は「しかし残念なことだ。あのたわけ者の前に我が子供らは馬を繋ぐことになるであろうよ」と言いました。
つまり「いずれ自分の子供も織田信長に従うことになるはずだ、それぐらい織田信長はのし上がっていくに違いない」と感じたわけです。
この二人の初めての会見は、その後の織田信長の片鱗をのぞかせると同時に、その器の大きさを予見していた斎藤道三の洞察力を象徴するエピソードなんですね。
会見後の斎藤道三と織田信長の関係を解説!道三の手紙(遺言書)からもわかる信長への信頼関係
会見以降、斎藤道三は織田信長に対して絶大な信頼をおいていたようです。
それは、晩年に斎藤道三が残した手紙(遺言書)によく現れています。
どういうことかというと、自分が死んだ後は、実の息子達ではなく織田信長に美濃の国を譲ると書いてあったのです。
斎藤道三には跡取りとなる息子も何人かいましたが、その息子たちを差し置いて娘婿の織田信長に後を任せたわけです。
ただ、その背景には息子の斎藤義龍と不仲だったことも一因だったのかもしれません。
息子の斎藤義龍は実は斎藤道三の子供ではなかったという噂もあり、その影響もあってか、後に道三と義龍の親子の仲は決定的に崩れます。
そして、ついには親子で戦となり、この親子の戦「長良川の戦い」によって斎藤道三は討ち死にしてしまうのです。
なお、この「長良川の戦い」に織田信長も兵を送って斎藤道三を援護しようとしたのですが、残念ながら合戦には間に合いませんでした。
その時の様子は下記の記事にまとめていますので、併せて読んでもらえるとより一層状況がわかると思います。
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義理の父である斎藤道三とは信頼関係を築いていた織田信長ですが、その道三を殺害して美濃を治めることになった義龍や、その子・龍興とは対立する関係になっていきました。
大河ドラマ「麒麟がくる」でも、この斎藤道三と織田信長は登場しますが、今後は息子の斎藤義龍(高政)との関係もどのように描かれるかが楽しみですね。
ちなみに斎藤道三も「美濃のマムシ」と呼ばれ、戦国時代の下剋上を成し遂げた代表的な人物です。
そんな斎藤道三の生い立ちや、なぜ「美濃のマムシ」と呼ばれたかについてもまとめましたので、興味のある人はぜひ下記の記事も読んでみて下さい。
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さて、このブログでは他にも大河ドラマ「麒麟がくる」の時代背景を取り上げた記事を掲載しています。
登場人物の関係性など、ドラマでは描ききれなかった裏側についても書いていますので、さらに深く楽しみたいと思った人はこちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。
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