古墳といえば仁徳天皇陵を代表する大型で鍵穴の形をした前方後円墳を思い浮かべる人が多いと思います。
ただ、古墳はなにもこうした超大型のものだけではなく、大小様々で形も多種多様にあり、日本にはなんと159,636基の古墳が存在します!(平成28年度の文化庁の統計資料より)
時代の移り変わりとともに古墳の数は減り、やがて終焉を迎えたわけですが、それはなぜ古墳が作られなくなったのか?それはいつ頃のことなのか?これらのことについて解説しています。
古墳の「前期」「中期」「後期」の特徴や種類を簡単に解説!
まずは古墳がいつ頃から作られるようになったのか、時代によって変わっていった古墳の特徴などについて解説していきます。
古墳はいつ頃から作られるようになったのか簡単に解説
古墳が作られるようになったのは3世紀後半からで、その始まりは一説には卑弥呼と関係があるという考え方もあります。
その後、形や大きさも多岐にわたって作られ続けますが、7世紀頃を境に古墳は終焉を迎えます。
その始まりと言われる卑弥呼と古墳の関係や、古墳が作られた目的については下記でご紹介しています。
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なぜ大阪には大きい古墳の数が多いのか?作った目的や理由を解説!
2019年7月に大阪の「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されました。 世界でも最大級の大きさを誇る「仁徳天皇陵」をはじめ、国内でも有数の大きさを誇る巨大古墳が大坂には数多く残っています。 なぜこれ ...
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「前期」「中期」「後期」の特徴・種類・副葬品:代表的な古墳まとめ
古墳は時代によってその大きさや種類・副葬品などが異なる特徴をもっており、大きく分けて「前期」「中期」「後期」に分類できます。
それぞれの特徴をまとめてご紹介します。
古墳の形態 | 分布 | 副葬品 | 埋葬者 | 代表的な古墳 | |
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前期 3C末~4C |
多種多様 円墳・方墳など |
畿内~瀬戸内 | 鏡・腕輪・農具 | 司祭的指導者 | 箸墓古墳 (奈良県) |
中期 4C末~5C |
超巨大 前方後円墳 |
全国に広がる | 武器・馬具 | 武人的首長 | 大仙陵古墳 (大阪府) |
後期 6C~7C |
群集墳・装飾墳 | 全国に分布 | 日用品 | 有力農民 | 高松塚古墳 (奈良県) |
なぜ古墳は作られなくなったのか理由を簡単に解説!
さて、全国に分布する古墳はいったいなぜ作られなくなったのでしょうか?それはいったいいつ頃のことなのか?
気になるその理由と背景について簡単に解説していきます。
薄葬令の発布によって古墳を作ることを制限したから
646年の大化の改新の一環として、同年3月に「薄葬令(はくそうれい)」というものが出されました。
これは、古墳を作る際に駆り出される民衆の労力を軽減するため、身分に応じて作ってよい陵墓を制限したものです。
この「薄葬令」では、人馬の殉死殉葬を禁止し、天皇の陵についても7日以内に完成させなければならない、といった内容が盛り込まれました。
「薄葬令」の目的は、各地の有力な人物が権力を誇示する為に作っていた古墳作りを制限することで、天皇を中心とする中央集権化をアピールする狙いがありました。
大化の改心
昔の教科書では「大化の改新」は645年に行われたとされていましたが、現在の教科書では646年に行われたものとしています。 「大化の改新」といえば「蒸しご飯(645年)でお祝い」などの語呂合わせで覚えた人も多いでしょう。 しかし、今の歴史の教科書では「大化の改新」の年号は646年とされ、かわりに「乙巳の変(いっしのへん)」 ... 続きを見る
その理由については下記の記事を参考にしてみて下さい。
乙巳の変と大化の改新の違いを簡単に解説!なぜ教科書の年号が変わったのか理由についても
仏教の普及により火葬が一般化したから
以前は土葬が一般的でしたが、仏教の普及により葬儀は火葬が一般的になってきていました。
伝来以降、またたく間に日本国内に普及した仏教は当時の最先端をいくものであり、火葬が一般的な仏教に反して「土葬の古墳を作ることは時代遅れ」という認識が広がったのではないかと考えられます。
以上のことをまとめると、古墳が作られなくなった理由は次のとおりです。
- 「大化の改新」後の「薄葬令」によって古墳を作ることを制限されたから。
- 仏教の普及に伴い火葬が一般化したから。
古墳の終焉とも言える火葬の最初は持統天皇
さて、仏教の普及による火葬の風習が、古墳が作られなくなった大きな理由のひとつですが、天皇として最初に火葬されたのは第41代持統天皇です。
持統天皇は天武天皇の皇后であり、天武天皇の跡を継いで律令国家の基礎を築いた女性天皇です。
なお、天武天皇が編纂を命じた日本最古の正史「日本書紀」は、この持統天皇の記録までが記されており、日本の最高位の女神・天照大御神(アマテラスオオミカミ)のモデルは持統天皇ではないかという説もあります。
江戸時代以降の天皇は土葬され、幕末以降の天皇陵は古墳そのもの
先程、第41代持統天皇は、天皇として初めて火葬されたとお伝えしましたが、その後は土葬される天皇もおり、室町時代頃からは火葬が定着していました。
しかし、江戸時代の始めころからは土葬が復活し、その後は土葬される天皇がほとんどです。
さらに、幕末の孝明天皇以後は墳丘も作られ、昭和天皇が眠る武蔵野陵はさながら古墳のような陵墓なのです。
古墳は古代の遺産であって、その後は作られなくなったと思われがちですが、実は歴代の天皇陵はさながら古墳のようなものだったわけです。
そう考えると、古代から続く天皇家の歴史の長さや重みが伝わってきますね。